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俯瞰について

 ヨガに限らず、自身を俯瞰するという練習は、いろいろな場面で見られます。

 では、俯瞰するって一体どんな事?ヨガ教典、ヨガスートラ1−3には、
タダー ドラシュトウフ ソヴァルーペー アヴァスターナン
(心が静まるとき)人は変化を観る存在である自分の真実に至ります。
Then the seer(Self)abides in It's own nature.
サンスクリット語の”ドラシュトウフ”を 観る者という意味に置き換えていますが、スワミサチダナンダ先生の英語訳でも、”ドラシュトウフ”をseerと訳しています。

 観る者が自身の中に存在する。ということですが、では、この観るものとは、一体何を観るのか?
 それは、途切れなく私たちに降り注がれる変化の波の中にいる自分自身。状況が変わると、呼吸も変わり、気持ちも変わり、心拍数も変わっていく。さっきまでは随分やる気があったのに、突然やる気が無くなったりと、このようなことは、誰にでも普通に起こる事だと思います。そして、「なんでこんなにやる気がでないのだろう?」 とか思って落ち込んだり、特定の人に会うと、気持ちが落ち着かなくなったり、特定の場所や匂い、歌など聞いては、気持ちが揺れ動いたりして、すっかり心が疲れてしまうっていう事、案外普通のことだと思っていますよね。

 ところが、ヨガの経典によると、この変化する自分を見つめている存在こそが本当の自分自身であり、この存在に気づくことで、私たちは、無闇に心が揺さぶられることはなくなり、穏やかになれるということなんです。 


 俯瞰する方法としては、一つの例ですが、例えば、怒りにかられ、はらわたが煮えたぎるような状況になったとき(これはかなりハードル高いと思いますが)、まずは呼吸に意識を向け、心が落ち着くまで、呼吸を整えて行きます。そしたら、心の中で、
「今、私は、大変な怒りに駆られている」
と呟き、怒りに満ちた自分自身の姿を別人として眺めてみる。出来れば詳細に観察すると良いと思います。目がつり上がり、顔は怒りの炎で真っ赤に燃え上がり、髪の毛なんかは逆だってしまったり、鼻の穴が、恐ろしいほど膨らんで、そこから漫画で描かれるような息が勢いよく吐き出され、肩を震わせ両手には拳を握り、プルプルプルと震えている。みたいな感じで。
すると、どうでしょうか? 先ほどまで怒りにコントロールされていた自身は、すでに冷静さを取り戻しているかもしれません。

 ヨガの教えでは、真実の私たちは、変化する一コマ一コマに対応していく自身ををただただ眺める存在だということです。この存在をサットと言います。

 私たちの日常は、色々な役割をこなさなければ成り立ちません。母親、父親、おばあちゃん、おじいちゃん、娘、息子、先生、生徒、社長、社員、女、男、御近所さん等、様々な役割を担って生きていますが、この役割を通じて、様々な体験が可能になります。これらの体験を通じて智恵を取得して魂は磨かれていきます。しかしながら、この役割は一時的な物であり、この人生が終わるときには、私たちは、役割から離れていきます。ちょっと究極な例ですが、人生が終わったときですらまだ存在し続けるのが、その全てを見続けている存在、サットということです。そして、このサットという概念を使うことで、私たちは、心穏やかに、慈悲深く生きられると、ヨガ経典は教えてくれています。

Sat Num

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