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ヨガの道って?

 俗にいう ”フィットネススタイル” のヨガに没頭すること2、3年。随分熱心に続けていた人が 突然姿を消すという現象が度々起こるようになり、どうしたのかな?と余計なお節介心を発動させるようになると、多くの人が、ヨガで怪我をして続けられなくなったということを知るようになった。確かに、頭立ちのポーズや顎立ち?のポーズなど、アクロバット的なことにずいぶん早くから挑戦する若い子達が度々登場し、自分がすっかりおばさんんである事を自覚している私は、”ビバ若さ!!”とかって、訳のわからない言葉を心に響かせて微笑んでいたのでした。

 それと同時に、自然な流れで、自分の身に起きた変化を内省するようになりました。この頃から、幼い頃におばあちゃんが言ってたことが心の中で、まるで白黒の映像に色付けされていくように生き生きと踊り始めたのでした。そして、この頃やっと、仏教とヨガは深い関係がある事に気づくのです、49歳という歳になっての出来事でした。ちなみに、おばあちゃんは熱心な仏教徒でありました。

 それがきっかけで、ヨガの哲学的な面を探ることになったのですが、これまた面白く、知らずして、マリアナ海峡の如く深い深海(大袈裟です)を探っていくことになってしまうのです。

 ヨガに関する事を述べているYouTubeを時間がある時には随時見ていた時、あるインド人のヨガの講師さんが、こんな事を述べていました。 ”ヨガの道を選んだ人は、やがて天国(正しい表現は、忘れてしまいました)へ行き、ヨガの道を選ばない人は、皆地獄へ行く。” なんとも大胆で恐ろしい意見ですね。英語での表現だったので、かなり単刀直入って感じの表現法でしたが、それにしても余りの大胆さにしばし硬直状態でした。

 が、ひとまずそれを受け入れて、自分の中で咀嚼して、必要な栄養を見極め、要らない物は流し出そうというスタンスで、この先生の言葉を半年ほど胸に抱えて生活していました。今の段階での私の答えは、人生とは、障害物競争(他人と争うのでなく、己との葛藤)で、行く先は皆同じ。それを天国と呼ぶのか、極楽浄土と呼ぶのかは、個人の自由。で、この障害物競走のオプションの一つとして、ヨガの道があったり、キリストの道があったり、イスラムの道があったり、ってことで良いんじゃないか?です。

そういうことにしておけば、余計な争いなんてなくなるんじゃない? って思いませんか?

Sat Nam


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