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塚田千束『アスパラと潮騒』短歌研究社*歌集鑑賞

   先生と呼ばれるたびに錆びついた胸に一枚白衣を羽織る

 塚田千束の歌集は、どうしてもプロフィールと切り離しにくい。それはまず、医師という職業柄の側面が大きい。どうしても医師として命に寄り添う歌には注目してしまうし、多くの読者に新鮮な視点と発見をもたらす。
 かつ、母として、妻として、娘として、女性としての役割を多角的な視点で歌われている歌集だ。

   母乳でしょうと言われるたびにすり減ってついに踵が地獄に触れる

   泣きやまぬ子を抱いているグラスひとつこんなにも結露させてしまった

   家出するように身体を脱ぎ捨てて母も娘も妻も飽きたね

 やはりこれらの歌は、結婚出産を経験した女性には、深く刺さる歌で、「踵が地獄に触れる」とい表現が決して大げさではないと感じるし、「結露させてしまった」グラスに泣きたくても泣く余裕もない育児の時間がみごとに投影されている。「家出するように身体を脱ぎ捨てて」は、自我の構造を考えさせられた。社会的役割と肉体と精神は入れ子構造のように想像できるが、実際は社会的役割が肉体と癒着して切り離せないほどになっており、身体ごと脱ぎ捨てねば純粋な精神である「自我」に辿り着けないというふうに解釈した。「母も娘も妻も」と強くジェンダーを意識させる歌で、わたし自身が共感できる要素を全て持った読者だからこそ、拾い上げてしまう。しかしその真骨頂を見極めるにはジェンダーにこだわらない視点で読むほうがいいのではないかと感じる。職場や家庭やSNSといくつもの顔を使い分けることに飽き飽きしている気持ちは、年齢性別なく共感できる要素ではないかと思う。

 この歌集の帯にはそもそもこうある。
 「もがく日々のうた。医師として、母として、娘として、妻として。」
 
実際、これらの視点をテーマにした秀歌が多いのではあるが、この作者の属性に注目することは、読者を狭めてしまう枷になりかねないと危惧する。その属性を取り払った歌の魅力に、底力を感じるからである。

   雪からは火葬場として見られゆくぽつりぽつりとひとびとあゆむ

   花柄の傘を選んだ瞬間はひどくあかるいいきものだった

   途方もなく未来のことを託される前売り券が重たくて春

   土砂降りにおのれの背骨だけで立つあなたに傘も祈りもいらぬ

   緞帳の上がる間際のきらめきをひとりが立てばそのほかは死だ

 この五首は、わたしの特に好きな歌だ。
 「雪からは」は、生と死を見つめる視点の転換が鮮やかで、生きることで持つ体温が雪にとっての火葬場であるということに、あらゆる独善への警鐘を読みとった。
 「ひどくあかるいいきものだった」は、平常時の自分と乖離したような選択をあとから振り返る感覚が、リアルに想像できる。
 「前売り券」は、楽しみなことのはずなのに、あまりにも先のことを決めるときの億劫さのような感覚が「重たくて春」に集約されていて共感できた。
 「あなたに傘も祈りもいらぬ」は、作者の属性を踏まえれば、「あなた」との関係性を医師と患者とも読めるが、それを飛び越えた普遍性がある。逆境に立ち向かう強さへの敬意とともに、なにもできぬ無力感が滲む。
 「緞帳の」の歌には、独自の死生観が描かれていて印象的だ。
 これらの歌を読むとき、作者が医師や女性であることなどもはや要らぬ情報である。

 この七月、『アスパラと潮騒』は、刊行から一年を迎えたとのこと。その間に、いくつかの書評を歌誌で拝読したが、わたしはそれらにあまり満足していない。属性に縛られたくないという思いが歌われた歌集が、属性に基づいて読まれることへの不満と言おうか。作者の職業や性別の情報は、事実切っても切り離せないので、その読み方が間違っているというわけではないが、「この歌集よ未読の読むべき人にもっと届け!」という思いを込めて、遅ればせながら、つたない評を書かせていただきました。この夏、改めておすすめです。

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