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伊豆みつ『鍵盤のことば』書肆侃侃房*歌集鑑賞

   花の名を呼ぶかのやうに歌ふから耳がすっかり咲いてしまった

 口語、文語、旧かな、新かな、どれをどう選択するかでその人の文体はつくられる。わたしに、口語に旧かなを取り入れた文体の魅力を教えてくれた歌集を読み返して紹介したくなった。
 伊豆みつの歌集には、花や音楽、サブカルなど様々な要素があり、引き出しの多い歌人だと思う。「花」と「歌」が入ったこの一首は、この歌集の世界観の入り口という気がする。伊豆みつの歌を読めば「耳がすっかり咲いて」しまうかもしれない。
 と思いきや...

   うるせえぞおまへ、挽歌詠んだろか。花のなまへをつけてやらうか

   あなたって呼ぶだけとほくなりさうでむかつくしおまへつて呼びます

 初めて読んだときの衝撃たるや。「挽歌詠んだろか」は、死者を悼う歌を詠むつまり「おまへ」を死者たらしめる。「殺すぞ」の意を歌人らしく言い換えているところにユーモアがある。しかしその物騒な発言を「。」で切って「花のなまへをつけてやらうか」。これは神話のなかで、死したキャラクターを神様が花や星座に変えるというような発想が下敷きになっていると想像した。「花のなまへをつけ」る行為は、死者を弔う儀式としてもとらえられるが、怒りなどの負の感情を作者の好きな「花」に転換して自分の心を守っているようにも読み取れる。そしてこの歌こそ、旧かなの味わいが功を奏している。内容の乱暴さと、かな遣いの丁寧さ発想の美しさのアンバランスが魅力的だ。
 「おまへ」の表記も、「おまえ」とでは遙かに印象が違う。「とほくなりさうでむかつくしおまへって呼びます」の歌を見ると、現代語でいう「おまえ」の粗暴さや上から目線のニュアンスとは違う、作者のなかだけに確立されている二人称としての「おまへ」は、「あなた」より距離の近いおそらくは大切な人なのだろう。とすると、「うるせえぞおまへ、」の歌も本気で怒っているのではなく、花の名をつけたいくらい好きな人への愛情の裏返しだったのかと、思い至る。

   さういふ目で見るから本は本になるもともと鷲になる筈だった

   読みさしの文庫のやうに生きさしのわれは生きさしのまま閉ぢられむ

   Lebensunwertes Leben どこまでがさうなのでせう葉緑体を持たずに生きて

 作者は、既成概念によって作られる姿に疑問を呈す。「さういふ目」のせいで、「鷲」は「本」になっている。人間の自分は、むしろ「本」に「読みさしの文庫のやうに」閉じられることを望んでいる。あるいは、作者は植物に、花になりたいのかもしれない。人間が植物ではないという意味を含む「Lebensunwertes Leben(レーベンスウンヴェアテスレーベン)」の歌。これは、日本語に訳すると「生きるに値しない命」というドイツ語で、劣等的な資質の持ち主を差別する思想として使われてきた。劣等的な資質の持ち主というならば、葉緑体を持たない人類みな劣等的で生きるに値しないのではないかと、問題提起する。この歌でも「どこまでがさうなのでせう」の旧かなは、どこか優しくのびやかな語調で、この危うい思想を諭すように響く。

   われを綺麗だとか綺麗ぢやないだとか全員そこへなほれ さちあれ

 作者は、既成概念の外から人間を見てきたが、さらにそこに自分の性を見る。他者からの「さういふ目」によってつくらる「綺麗だとか綺麗ぢやないだとか」のルッキズムに対し、「全員そこへなほれ」ときたら怒りとお説教をその先に想像するが、「さちあれ」と肩すかしをくらわされるのが、なぜか痛快だ。これは、「花のなまへをつけてやらうか」の構造に似て、全員に「さちあれ」と祝福することが理不尽な価値観への抵抗と戦いなのではないだろうか。それは、引用を割愛するが、他にも神や祈りのモチーフが登場するこの歌集では、キリスト教的な精神とも感じられる。
 
  ゆふぞらは強く曇りぬひたありくわたしのファム・ファタールはわたし

 「ファム・ファタール」は、「運命の女」と訳されることが多いが、破滅へ導く魔性の女の側面もある。「ゆふぞらは強く曇りぬ」の比喩は、人生が決して明るく晴れやかなものでないのだろうが、それでも「ひたありく」とまっすぐに歩くわたしを、生かすも殺すもわたしである。それを他者にゆだねることはないのだという決意が美しい。この表現も、「ファムファタール」という古くからある概念を受け継ぐのに、文語旧かなを用いる文体がはまっている。
 改めて短歌の文体をどう選ぶかは、美意識の表明だと思う。純粋な現代語とかな遣いでは得られない、既存の世界への抵抗、あるいは既存の世界に異質な自分を融和させるには、伊豆みつにはこの文体だったのだろうと納得させられる。

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