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橋爪志保『地上絵』書肆侃侃房*歌集鑑賞

 たとえ仲の良い友達だとしても、すべてを理解できるわけではない。逆もしかりで、仲が良い人にも理解されたくない部分が自分の中にある。というのは言い訳の前振りになってしまうが、橋爪志保の歌には、よくわかるものとわからないものが混在している。そのわからなさは、作歌する上での意図的なものというよりは、作者の内面をそのまま顕在化した結果という気がする。その根拠は歌集から逸脱してしまうのだが、日頃SNSで垣間見る作者の断片的なつぶやきが、ほぼこの歌集の謎の歌と同種のものだからだ。橋爪志保は「こういう歌を作る人」というよりは「こういう歌のままの人」という印象だ。ちなみにわたしは、その作者のつぶやきを見るのが好きだ。

   I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる

 歌集の表題になっている歌がこれだ。考えるな感じろ、と自分に言い聞かせても不思議な歌だ。地上に住む人間に、地上絵は見えない。ただ空に視点を持つものにだけそれが理解できる絵。言語においても正しさ以外に、視点を変えれば見えてくる景があるのかもしれない。そんな可能性を感じ取るのがわたしには精一杯だ。
 この流れで、わからない系のしかし気になる歌を紹介していく。

   左上に切手を貼ればたましいはうかぶわ きみは恋人だった

 手紙に記された言葉が言霊とも言える「たましい」だとすれば、切手を貼ればうかぶかもしれない。しかし、それは誰宛の手紙なのか。過去形の恋人宛てなのだろうか。しかしうかんだたましいは、どこへもたどり着かずに浮遊していきそうな予感がする。

   暴力め 日照雨のなかでたましいが売り渡されるときに泣かない

 定型からもだいぶはずれているこの歌。しかし強い言葉が散りばめられていて魅力的だ。短歌が定型からはずれるとき、その言葉と語順に必然性が感じられるかどうかが問われると思う。これにはそれを感じられる。初句は「暴力め」で結句は「泣かない」なのがいいし、それを結ぶ「日照雨のなかでたましいが売り渡されるとき」は、なんの比喩かはわからなくとも、揺るぎない筋のある状況の説明だ。作者が、暴力に屈しないという決意その一点は伝わってくる。
 さて、ここまでが、わたしにとって難所と感じた歌の紹介だ。(他にも読み解くには歯が立たなかった歌があるが。)わかる歌では、日常にあふれる愛しさと、それと対を成すような寂しさが感じられる歌が好きだ。

   振る腕が痛めばときどきひだりみぎ変えながら聴くライブだったね

   心臓が惜しげもないや 歌ってるときその歌にぼくはなってる

 振る腕が痛くなっても楽しくて止めることができない、そんなライブ風景の臨場感が「だったね」と語られるとき、ぐっと近くに立ち上がってくる。「心臓が惜しげもないや」も、ドキドキするというような使い古された言葉ではなく、これでもかと鼓動する様子を最大限にしているし、「歌ってるとき」その歌そのものに「なってる」のも、音楽との一体感をまっすぐにとらえている。

   だめという返事を待つ布団のなかで涙のかわりに落とすテトリス

   ここへ来て一緒に濡れてほしいのにあなたは傘をたくさんくれる

 ほぼ言葉通りに読めて共感しやすい歌だ。「涙のかわりに落とすテトリス」、たまらなく良い。テトリスにはまったことのある人なら、誰しも心を無にしてゲームに没頭し、感情を紛らわせる時間を過ごしたことがあるのではないだろうか。
 「ここへ来て」の歌は、相談をもちかけたときに、解決策を提示してほしいわけではなくただ聞いてほしいという感情の類型だろう。しかし「傘をたくさんくれる」あなたへは愛情も感じられる。たくさんの傘、過保護な様子が微笑ましい。

   ほんとうのことを喋ればいなくなる友だちばかりみたいな雪だ

 着地した瞬間に溶けて消えてしまう雪、都会の雪は特にこんなふうに刹那的に降る。作者の経験と重なって、いなくなった友だちを思い出したのだろうか。この作者は、さびしがりやだが、そのさびしさをきちんと引き受けている。引き受けようとしている。もしくは引き受けざるをえないだけなのかもしれないが。だからこそ、好きなものに丁寧に愛情を注ぐように、歌の中に散りばめている。切手もテトリスも傘も、日常にある作者の好きなものなんだろうと思う。

   次に話題尽きたら鳥のはばたきの風をさわったことを話すね

 うん、また話してほしい。読者として、これからもきみの言葉を待っているね。

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