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笹公人『終楽章』短歌研究社*歌集鑑賞

 今話題の『シン・短歌入門』の著者、笹公人(以下、笹先生)の第五歌集を改めて味わう。
 『シン・短歌入門』は、初心者にもそうでない人にも、よくある疑問をQ&A形式でわかりやすくまとめてあり、最後には既存の短歌を穴埋め問題にした短歌ドリルがあるなど、楽しく短歌が学べる素晴らしい入門書だった。丁寧で、親切で、おもしろい。入門書にも人柄があらわれている。
 その笹先生の第五歌集が、2022年8月に発行された『終楽章』だ。帯文には、「念力少年四十五歳、壊れゆく父にガチで挑む。『念力家族』から19年目の新境地。」と記されている。第一歌集である『念力家族』は、ほんとうにおもしろく鮮烈で、我が家では小学生の息子が夏休みの読書感想文に選んだほどのお気に入りだ。(もちろん、それを息子に教えたのはわたし。)その、子どもから大人まで読んで楽しい短歌の先駆者、笹先生がご自身の父親の介護を歌にしているというのだから、どんな風に表現されているのかと興味を持たずにはいられなかった。

   認知症の父を探してまわる町に子連れの吉田を見かけ見送る

 生活の中心に介護がある家族の形は、なんとなく独特だ。わたしも以前、同居している祖父の介護を家族でしていた頃を思い出す。介護をしている家族には、子連れの家族がなんとも眩しく見えるものだと思う。「子連れの吉田」にどんな思いを抱いたのかは想像の範疇だが、「見送る」背中に哀愁が漂う。

   真夜中に幾度もトイレに起きる父の砂漠の亡者のような足どり

 本当に、一晩中つきっきりで下の世話をする介護は大変だ。緩慢でおぼつかない弱った老人の足どりは、「砂漠の亡者」と言われれば見たこともないのに不思議としっくりとくる。砂漠にいるように感じるのは、介護するほうもされるほうも、疲弊して心が乾いているからなのかもしれない。終わりのない砂の地平線が、真夜中の家の廊下に広がって見える。
 それにしても、見たこともないのにしっくりくる表現というのは、笹先生の得意技だ。

   機嫌のいい殺人鬼みたいなステップを見せられている後輩の部屋

 どんなステップなのか、わからないのに、わかる気がする。わたしは、「バットマン」シリーズのヴィランを描いた映画『ジョーカー』を思い浮かべた。いや、あんなには怖くないといいのだけれど。でも、ちょっと狂気を含む愉快さがある、そんなステップなのだろう。そしてそれが、先輩ではなく後輩なので、どことなく優しい目線で見守っている感もある。
 笹先生は、家族や身近な人に対する情の深さが半端なく深いと思う。(わたしから見ると。)その情の深さが、ノスタルジックな歌に乗せられると絶品だ。

   大王との戦いに挑むマリオ氏の8ビットには映らない汗

   刺されないさみしさを言う物置の「黒ひげ危機一髪」の黒ひげ

 マリオも黒ひげも愛しくて抱きしめたくなるし、泣きたくなっちゃうのだ。こんなふうに想像できる作者の優しさに、わたしは畏敬の念を覚えるほどだ。でもその想像には、作者本人の「汗」や「さみしさ」が投影されているようで、切実さを伴う。ゆえに応援したい、推したいという気持ちにさえなる。(もう推しています。)
 いつも、ネガティブな気持ちをちょっとした笑いに変えられる、そんな表現者としての笹先生は『念力家族』から見られるが、その情の深さを別の角度から感じられて、新鮮だった歌がある。

   自転車の車輪にからまる蔦のごと束縛しあったあのころの日々

 このように優しく情の深い人が恋に落ちるとこうなるのかと。「ある恋の終わり」という一連は、ユーモアのセンスを備えながらも情熱的で魅力的だった。まだまだ、もっともっと、多彩な歌をこれからも詠まれるのだろうと、期待がふくらむばかりだ。

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