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小坂井大輔『平和園に帰ろうよ』書肆侃侃房*歌集鑑賞

   乗車位置ではないところに立っているわたしの後ろに出来た行列

 行列を作るのは、もはや日本人の習性なのか、なぜ乗車位置ではないところにわたしが立っていたのかはわからないが、例えば立ち止まってスマホをいじっていただけかもしれない。だがふと気づけば後ろに列ができてしまっていて気まずいかんじが笑いを誘う。

 この歌集の作者、小坂井大輔は1980年愛知県名古屋市生まれ。短歌の聖地と呼ばれている、名古屋駅西口の中華料理店「平和園」料理人である。
 わたしは、昨年所属する中部短歌会の全国歌会に出席するため、初めて名古屋に降り立ち、平和園にも立ち寄ることができた。その道すがらの新幹線では、名古屋を満喫すべくこの歌集を読みながら過ごした。

   届かずにわたしの後頭部に当たる誰かの願いを込めた賽銭

 混雑した初詣では、後ろのほうから賽銭を投げることがある。それが後頭部に当たったり、フードのついた服を着ていくと小銭がそこに溜まるなんて話も聞いたことがある。後頭部に小銭が当たる光景におかしみがありながら、誰かの願いが後頭部に阻まれて届かないという哀れさもある。後頭部に小銭が当たった「わたし」は、痛いななどと感じたかもしれないが、誰かの願いがそこに込められていることをすくい上げているところに温かみがある。

   土下座したこともあるんだブランコに座った男の靴に踏まれて

 こんなことって本当にあるんだろうか。個性的な経歴の作者にはあるのかもしれないが、ブランコに座った男の靴に踏まれて土下座をするという光景は、なんだかドラマや漫画にありそうな既視感がある。これが、社長室の椅子に座った男の靴に踏まれて…ならば、また印象は変わるだろう。ブランコという子どもの遊具に座った男は、ひどく人を馬鹿にし嘲っているような印象がある。屈辱の度合いが計り知れない。「したこともあるんだ」という語り口調には、他にも色々あったエピソードのひとつというニュアンスがあり、その後ろにある苦い物語の広がりが垣間見える。

   わたしのなかの進路指導の先生が死ぬなと往復ビンタしてくる

 「わたし」のなかに進路指導の先生がいてよかった。「死ぬな」と往復ビンタをするほどの強さで引き留める自分のなかの別人格。しかし、裏を返せば「わたし」にはそれほど強く「死にたい」と思ったことがあるということである。豪快な描写の中に、弱さを抱えた「わたし」の横顔が見て取れる。

   作者がなんとロダンだと知りご近所のただの全裸がかがやく日暮れ

 「なんとロダン」思いもしなかった巨匠。知るまでは「ただの全裸」であった像が、巨匠の作とわかれば急に輝いて見える。「ただの全裸」という身も蓋もない言い回しは笑いを誘う。だが「かがやく」のひらがな表記を見ると、本当には輝いてはいないのかもしれない、舌足らずというか心のこもらない棒読み感がある。それは、人間の脆弱な審美眼を揶揄しているようでもある。そんな曖昧な評価に晒される芸術に、文芸も含まれるかもしれない。複雑な思いが「日暮れ」ににじむ。

   マッキーの細い太いの両方のキャップを同時に捨てる覚悟で

 定番油性マーカーの「マッキー」だが、その両方のキャップを同時に捨てたらどうなるか、答えは明白だ。キャップが無ければインクが揮発して乾き、たちまち書けなくなるだろう。つまりペンという文具としての寿命を急速に縮める行為である。だめよ、だめだめ!人間のあなたはそんな覚悟をしてはいけない!喩えの面白さとは裏腹に、危なっかしい作中主体が心配である。

   退会のボタンが見当たらない通販サイトのような僕の人生

 ある。メルマガが大量に来ている通販サイトを退会しようとしたら、ぜんぜん退会ページにたどり着けないあのかんじ、わざとたどり着かせないようにしているだろう、あれは。などという経験が思い起こされるが、「のような僕の人生」という顛末には、言いようのない自己不全感があり胸がぎゅっとなる。

   ちょっとオレ他界してくるわって顔していた祖父のように逝きたい

 「往復ビンタ」や「マッキー」の歌など、時々顔を出す作中主体の希死念慮だが、どの歌もからっとしていて陰陽で言えば、むしろ陽気な印象さえ与える。「ちょっとオレ他界してくるわ」って顔はどんな顔だろう。少なくとも暗い顔や辛い顔ではない。そんな顔は見せたくないという、強がりが伝わってくる。

   お風呂場の床でシャワーが暴れてて許されないことばかりやりたい

 勢いよくお湯の出ているシャワーを床に落とすと、たしかに暴れる。蛇が暴れるようにうねうねする。それを放置してたら、止めどなくお湯が無駄に流れていく。早く事態を収めなければ。だが、暴れるシャワーに自分の中の鬱屈を発散したいという願望が誘発されたかのように「許されないことばかりやりたい」と結ぶ。お風呂では心も体も無防備になって、自分でも気づいていなかった本音がふと顔を出すことがある。そんな瞬間だと思う。

   なにも主張することがないデモ隊が無言で歩道を渡る夕暮れ

 デモとは、本来何かを主張するためにするものだ。「なにも主張することがない」人々の歩道を渡る行進は、夕暮れという薄暗がりへと続いている。それがデモ隊に見えるのは、飼い慣らされ主張の仕方を忘れているが、主張をくすぶらせながら抱いて歩く、本来主張があるはずだからなのかもしれない。そのデモ隊に加わって自分も歩道を渡るのか、ただ夕暮れに見送っているのか、「主張」は夜に飲み込まれていく。

 歌集を通して、拾い上げた歌を見渡してみると、力強いメランコリックに彩られている。折れそうな心と、それを鼓舞する強さが(たとえば進路指導の先生の姿になって現れたり)同時に備わっている、そんな歌集だ。
 平和園で、作者が鍋をふるった美味しい中華を食べれば元気が出る。作者も、元気で長生きして欲しい。

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