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レーズンバターが溶けるまで#文脈メシ妄想選手権

「あら、いらっしゃい。」

正太は予報より早く訪れた雨を気にすることなく、傘も差さずに家から5分程の通りにあるスナック「峰」のドアを開けた。

「あーくっそ!なんだよ俺!いい歳こいて!」

正太は開口一番、渡されたおしぼりに顔をうずめながら叫んだ。
「びっくりしたー‥何よいきなり。そりゃあ50も手前なら正ちゃんもいい歳だわね。」
「なんだよサチ。お前だって似たようなもんだろ?水割りな。」
「失礼な。もう作ってるわよ。」

サチは胸元が大きく開いたブラウスから谷間を覗かせて、正太のキープしているウィスキーでいそいそと水割りをこしらえ、ブルーのコースターと共に差し出した。

「おつまみ、いつものでいい?」
「ん?ああ。」
サチは慣れた手付きで冷凍庫からレーズンバターを取り出し、スライスしながら話を続けた。

「今日は遅いじゃないの。忙しかった?」
「ああ。ちょっと部下がやらかしてな。夜中から車飛ばして取引先まで走ってったもんだから。まあ、俺からしたら可愛いもんなんだけど。」
「ふうん。大変だったのねえ。」

「んでもそいつさ、親会社に子憑かれたもんだから泣きそうな顔でよ…見てらんなくて、帰りに偶々見つけたサービスエリアでメシ食わしたんだよ。」

「ふふ。正ちゃんらしい。元気のない子見ると、『とりあえず食え』っていうの、得意よねえ。」

サチは室温で溶けないように、クラッシュアイスを入れたシャンパングラスをソーサーの代わりにして、スライスしたレーズンバターを乗せた。

「そしたらよ、そいつ泣きながらきしめん食って『今度は自分がみんなを元気にします』って、土産物屋でドーナツ買ってんの。」

「うん。それで?」

「俺のマネして、パートのおばちゃんたちに『とりあえずみんなで食べよう』って、買って来たドーナツ配ってんだよ…」
「へえ。いい子じゃないの。」

「ああ。いい子って言うか‥そうじゃねえんだよなー。」

「そうじゃないって?ねえ、私も一杯頂いていい?その可愛い部下の話聞いてあげるから。」

サチは笑いながら正太より一回り小さなグラスを棚から取り出して、ウィスキーを注いだ。

「なあ、サチ。」
「ん?」
「お前さ、今までに『あんとき抱かれとけばよかった』って思ったことある?」

「は?どゆこと?」
サチは耳が熱で赤く染まるのをのを感じながら、正太を二度見した。

「だーからさー。」

正太はサチが作った水割りに酒を注ぎ足しながら続けた。
「あんとき、抱いとけばよかったーって思っちまってよー俺。」
「その子の事?」
「くーっ!情けねえわー俺。車の中で二人っきりだぜ!チャンスじゃねえか!」
「ちょっと…何興奮してんの正ちゃん。どうどう。」
サチは鼻息の荒い正太をなだめるように肩を叩いた。
「へ?ああ…なんだ、ははっ。何言ってんの俺…」
「ファー正ちゃん!乙女にでもなっちゃったの!笑ったり怒ったり忙しいわねえ。」
サチは大きな声で笑いながら両手を叩いた。
「だ、だよな…。つかよ、笑いすぎだろ?」

「面白いじゃないの。会社では随分といかついキャラで通ってる正ちゃんが、こんなに取り乱すんだから。大体ねえ、そんなこと思ったってアンタには言わないわよ。抱きたい女でもできたの?」

「いやーでもさ…俺ン中でダメなんだってそれは!なんかこう…決め事って言うかさ、ここだけは越えちゃいけねえって言うか。」
「決め事?相手が結婚してるとかそういうの?」

「いや、してない。してないっていうか、死に別れだ。」

「あら‥」
正太が煙草を取り出そうとした仕草を見つけて、サチはジッポーライター手にし、カチリと子気味のよい金属音をさせながら火をつけた。

オイルに忍ばせた微かな香水の匂いが、二人の間だけに広がる。

「まあ、そうねえ。正ちゃんみたいな、子供がそのまんまおっきくなっちゃったような大人は、相手が人妻だろうがなんだろうが、お構いなしなんだから。」
「だろ?俺ってそう言う奴じゃん?」
「何認めちゃってんのよ。分かった分かった。はい正ちゃん、あーんして。」

正太は言われるがまま口を開け、サチは食べられるのを待っているレーズンバターをピックで刺し、正太の口に突っ込んだ。

「教えてあげよっか。正ちゃん。」
サチはピックの先をくるくると正太の目の前で回しながら、クスリと笑った。

「恋しちゃったのよ。正ちゃん。それ。」
「恋ぃ‥?」
「そうよ。こ、い。」
「ンなわけねえだろ!あんな化粧もしねえ、鶏ガラみたいな奴に‥」
正太の目が泳ぐのを見ながら、サチは自分の口にもレーズンバターを運び、とろけるバターの塩味とレーズンの甘味が口に残っているうちに、水割りを勢いよく流し込んだ。

「だって正ちゃん、可愛いんでしょ?その子のこと。」
「ああ。可愛い。んでもよ、部下だからな。」

「抱きたいって言ってたじゃないの。」
「ああ‥言った。へ?言った?俺。」
「言ったようなもんじゃん。この流れからして。ボケてんの?」

サチはアイスペールから氷を取り出して、カランと正太と自分のグラスに入れながら、ケラケラ笑った。

「大体、死に別れとはいえさ、正ちゃんだって独り身なんだから。誰にも迷惑かけないじゃないの。抱いちゃえば?その子だって、まんざらでもないかもしんないわよー。」
「いやーそれがさ…分かんないんだよ。いいのか悪いのか。」
「もー何よお!グジグジ言うなら最初っから言うんじゃないわよ!めんどくさいんだから。」
「まぁいいや…お前には分かんねえよ!この男心は…今日は眠いや。サチ、勘定してくれ。」

正太は笑いながら、人差し指をクロスさせ、ちいさな「バツ」を作った。

「はーい。そんな浮ついたお馬鹿さんの話は分かんなくて結構よ。でも面白いから、今度来た時に続き聞かせて頂戴。笑ってあげるから。」
「なんだよー子供扱いしやがってー。」
「ふふふ。ばーか。」

サチは正太のほっぺを軽くつまみながら、釣銭を手渡した。

■□

正太が店を後にして、サチはカウンターに残されたグラスと溶けて食べられなくなったレーズンバターを片付ける。

気がついたら、唇を噛んだせいか、口の中は少しだけ、血の味がした。

「抱かれとけばよかったかな。」
サチは誰にも聞こえないような小さな声でつぶやいた。

(レーズンバターが溶けるまで#文脈メシ妄想選手権-Fin-)

※企画参加2本目です。1本目は100%実話で出してみたものの、「あれ?これちょっと主旨が…」となって。
今度こそ主旨に沿った(つもり)で書いてみました。
こんな夜が早く帰ってこないかしら…と思いつつ。



読んでいただきありがとうございました。これをご縁に、あなたのところへも逢いに行きたいです。導かれるように。