今日という日

今日、という日は続いていく。
今、世界のどこかで、戦争が起こっていても。

明日、という日はどうやらやってくる。
今、どこかで家族が引き離されていても。

毎日、は続く。
夜は相変わらず静かだし、ご飯はいつも通り食べたし、いつものように稽古場に向かった。
だけど、人と人の争いで、今、誰かが死んでいる。

同じ空の下で、戦争が起こっている。

SNSのタイムラインに現れる、戦争反対の文字、文字、文字。深刻な状況を伝える文章に、胸が焼かれる。私も迷いなく、戦争反対の文字を投稿する。
その合間に現れるどこかの誰かの日常のつぶやき。演劇の宣伝。ディズニーランドに行った写真。

誰かの日常と誰かの非日常が、あまりにも違いすぎて、世界が引きちぎれて見える。誰かの日常の喜びと誰かの起こってはいけないはずの悲劇がそこに実在していて、それを上手く受け入れることができない。

戦争反対。
それ以上の何かを発しなきゃいけない気がして、気が焦って、頭はぐるぐる動いているのに、これを伝える言葉がない。

ずーっとニュースに張り付いているのに、この胸にへばりつく違和感を、恐怖を、不安を、焦りを届ける言葉がない。建設的に発散して、消化する、言葉を持ち合わせていない、気がする。

私には言葉が必要だ。
この胸にある何かを掘りだす。

私には知識が必要だ。
断片的で、恣意的な、捉え所のない情報群ではなく。

私には覚悟が必要だ。
世界を正しい姿で認識する覚悟が。
多くの真実を知る覚悟が。
誰かのために立ち上がる覚悟が。

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