人間が絵を描く意味についての所感
なんだかaiイラスト問題が激化してきたか何かで、各人いろいろ対応してるみたいですね。
そんな中でstable diffusionを初めて触ってみた所感を書いてみる。
aiイラストは実際やってみると、思ったより思ったものがつくれるものではなかった。やってることはもしかしたら業者さんへの発注に近いのかもしれない。「こんな感じでー、あんな感じのー、こんな子を描いてほしいんですよぉー」ってプロンプトを書いて、生成スタート。参考に絵があるとさらにそれっぽいのができやすくなる。
でまあ作るんだけど、なかなか思った通りのものはできない。あれガチャだからね。しょうがないね。よく見たら顔イカれてたり、生首ができたり、黒服って言ったのに黄色い服ばっか出力したり。上手に使うにはたとえai任せでもそれなりのテクニックが要る。
だから元素法典だ研究wikiだとあちこちでaiの傾向が日夜研究されてるわけだ。
ビットコインみたいだなと思った。プロンプトを書くだけじゃ作れないから、最高のオンナを作れる理想の呪文を発掘する炭鉱夫たちなんだよね。彼らは。
そいで出力した絵を見るわけですが、これがなかなかにうまい。悔しいが自分の絵よりずっとかわいい。手が狂うとか髪とフードが溶けてたりとかはするけど、それって些末なことであって、いちばん肝心な「かわいさ」を、aiはちゃんと作れてるんだよね。その点で、自分だけのお手本を生成して勉強するって使い方がかなりいい感じなんじゃないかと思ったりした(学習データが他所様のものならこれもアウトなんだろうが)。
そしてこれが一番言いたかったこと。
「aiイラストによって、人間が絵を描く意味はより一層強まる」
例えば初期に言われてたファンアート問題。あれこそ好例だけど、ファンアートの本質は「うまい絵」ではなく、「それほどの手間暇をかけて『あなた』を描いた」っていう愛なのですよ、ナナチ。
ボルト氏が8秒で100mを走れたところで、車には勝てない。だが彼の走りを、走ることを、そういう論法で否定する人間がいるだろうか?同じように人間が絵を描く場であれば、今絵が上手い人は今まで通り、あるいは今まで以上に「神絵師」としての尊敬を集めるかもしれない。
絵を描くことを物書きに例えてみたっていい。絵にしろ文章にしろ、表現というのは自分の中にあるものを外に、誰かに伝えることが主目的なわけだ。であれば、「うまい絵を描く」っていうのは「文字をきれいに書く」とか「的確に場面を描写する」ってことに言い換えられる。もちろん作家の中にはかなり独特な言葉遣いをする人だってたくさんいる。けれども、彼らがすごいのは言葉遣いがすごいからではなく、彼らの話の内容がおもしれーからだ。
aiの出現によって荒れた界隈があることも確かだけど、そういう点で、間違いなく我々の創作は全体として一段上に上がったんじゃないだろうか。
すなわち、「つくるためにつくる」のではなく、「伝えるためにつくる」。
僕の恩師曰く、「デザインはビジュアルコミュニケーション」。僕ら絵描きも、これからは「どう、うまいでしょ?」だけじゃなくて、「私こんな事考えてるんです!」をちゃんと伝える段階になったんだろう。
言ってることは至極当たり前のこと。こんなのaiが生まれる前からずっと言われてた。初めからビジュアルコミュニケーションをしていた人間にとっては何でもない変化で、そうでない、旨さだけをアイデンティンティンにしてた人間が焦っている状態なのかもなあと思った。
もちろん人が精魂込めて作った絵を好き勝手に学習して、あちこちで暴れ散らかすのはいただけない。そういうことについて論じれてないから、ai問題について語るといいながらまったく的はずれな話をしたかもしれない。ゆるして。
ただそれに関しても、ai絵専門のプラットフォームができてはいるから、人間絵とai絵の水槽をちゃんと分けてやって、互いが互いの水槽を荒らさないよう注意すれば、次第に落ち着いていくんじゃないかなとも思う。
じりじり書いてもしょうがないな。おわり
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