白猫カリノ

写真&つぶやき。 シンプルな暮らし/元教員/読み聞かせ活動中/元文筆業。

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記事一覧

先生というより、話を聞いてくれる大人(人)でありたい。同じものを前にして、気持ちを分かち合う大人(人)でありたい。それだけで、子ども(若い人)は人の目を見て話をするようになる。

白猫カリノ
2か月前
1

成果として学力が伸びるかどうかではない、「向学心」を育てねばならない。自分の意志と希望に向かって舵を取る力だ。低学力の子らに学力向上の取り組みは無意味ではない。楽しくても点が取れなければ、真実を知っている彼らは学びに向かわない。「学びに向かう力」は点が取れてこそなのだ。

白猫カリノ
5か月前
3

児童文学は失われたのか

子どもに『はてしない物語』を読み始めた。 主人公のバスチアン・バルタザール・ブックス10才は日々の現実がつらい。空想好きの彼を、学校の同級生は頭がおかしいと言って…

白猫カリノ
11か月前
12

大抵の人にとって、ペルソナは着脱式ではないはずなんですよね。複数のペルソナにそれぞれ根があって、無意識下で絡み合っているんです。言語化は、とりもなおさずペルソナ生成(あるいは維持)の瞬間。私の正体とやらは、子どもと無言でくっつきあっている時に漏れ出ているかどうかってところ。

18

受容できないことは、常識になりようがない。あらゆる相手を自らに招き入れてしまうと、自分なんか消えてしまう。謎めいた宇宙空間みたいなこの場所に、いろいろな星・いろいろな灯りがともっていると思えば、よく知らない人が暮らす窓辺にも温もりがあるんだろう……という気持ちになれる。

10

大事なことは、日々の小さなトゲトゲじゃなくて、風のない春の海の波のようなうねり。波長が長くて、ゆったりとしたうねり。1分2分じゃない。今週中でもない……。寄せては返す、波のような。あたたかくゆるやかな。必ず聞こえている、人の暮らしの、低音のようなぬくもり。

14

理科の学習は「理由はどうだろうと、それはそうなっている」という観察から始まる。モノゴトに対するそういう接し方は、私にはとても優しい世界に感じられる。例えば、ある子が目の前にいたとして「なぜこんな振舞いをするのか?」よりも、まず「この子はこういう子だ」という受容から始まるように。

19

なんにもしてやれないな……と思うことがある。いろんな子が、自分の生い立ちや暮らしを携えているとき。一人の人の尊厳の姿。せめて彼らが学校に来たときに、柔らかく「おはよう」って顔を見て言えるような自分だけは保っておきたい。それすら難しい時があるにしても。その子を見て、挨拶したいんだ。

17

感情は時として滝のようだし、思考は時としてもつれた糸のようだ。どちらもそういった性質があるだけ。悪いとも思えない。状況を切り拓く強さにいつでもなるわけでもない。滝と、もつれた糸とを手にしながら、少しは自分らしく歩いてみたいものだ。善でも悪でもなく、強くも弱くもなく。

17

形と影

14

『草原の手帳から』という名の小さな本があった。草原で拾った手帳にはこんな言葉が書き留めてあった……という語り出しで始まる短文集。ラストでは「手帳の文字は、雨風でかすれてよく読めなくなっていた」といった風情で締め括られていた。あの潔さと軽やかさが残した余韻に、時々浸りたくなる。

9

「説得力」って、こっちを見て話す人からしか伝わってこないんだよな……。って、子どもたちは思ってるようです。大人として仕事の話をしていても同じです。話が下手か?そもそもこっちの状況・思いがちゃんと見えてるのか?聞き手はそこばかり気にしてます。時として正しさは全く貫通力がなくなる。

10

子どもが「可愛い」という感情は、どこか身勝手なものだろう。片思いのような、一方通行な気持ち。何かの拍子に、それまでの「可愛い」が一転して「可愛くない」になるおそれをはらんでいる。「子どもが可愛い」ことは両刃で、絶対善ではない。子どもは「おもしろい奴だな」くらいに眺めていたいなぁ。

6

ぼーっとすると、どこかへ流されてしまうと焦りながら生きてきた。子ども時代は、ぼーっとしていてもどこにも行かなかった。大人になるって舵取りの必要性に迫られることだと思っていた。ぼーっとしてみても、そう簡単に自分の性根が変わるものでもない。残念でもあるけど、安心してもいられる。

11

学校に適応させるのか、学校を子どもに適応させるのか……の話には結局ゴールがない。本来、力いっぱいやる必要もなかろうと思う。それなりの妥協点、なにがしかの曖昧さ。中庸。ぼんやりしたグレー地帯でいろいろな状況や人と折り合いながら自分を保つ事に、安心できない時代になっているのか。

9

ザ・小学生なネタで娘と盛り上がり、久々に笑いすぎで腹筋痛くなってしまった。笑いのツボ浅すぎて、笑わすの楽しい……。関係ないようだけど、数学で笑わすのはなかなかタイヘンだけど、理科ではしょ〜もない例え話するのが大好き。本当言うと「理解のツボ」部分なんだけど。やっぱり笑えないとね!

7

先生というより、話を聞いてくれる大人(人)でありたい。同じものを前にして、気持ちを分かち合う大人(人)でありたい。それだけで、子ども(若い人)は人の目を見て話をするようになる。

成果として学力が伸びるかどうかではない、「向学心」を育てねばならない。自分の意志と希望に向かって舵を取る力だ。低学力の子らに学力向上の取り組みは無意味ではない。楽しくても点が取れなければ、真実を知っている彼らは学びに向かわない。「学びに向かう力」は点が取れてこそなのだ。

児童文学は失われたのか

児童文学は失われたのか

子どもに『はてしない物語』を読み始めた。

主人公のバスチアン・バルタザール・ブックス10才は日々の現実がつらい。空想好きの彼を、学校の同級生は頭がおかしいと言っていじめる。学校の先生は上機嫌のあとに八つ当たりをしたりするので信用ならない。母は死んだ。父は歯科技工士で、母の死後これまで以上に仕事ばかりで彼の様子に気が付かないようだ。

バスチアンは、ふとしたことから古い本を一冊盗んでしまった。もう

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大抵の人にとって、ペルソナは着脱式ではないはずなんですよね。複数のペルソナにそれぞれ根があって、無意識下で絡み合っているんです。言語化は、とりもなおさずペルソナ生成(あるいは維持)の瞬間。私の正体とやらは、子どもと無言でくっつきあっている時に漏れ出ているかどうかってところ。

受容できないことは、常識になりようがない。あらゆる相手を自らに招き入れてしまうと、自分なんか消えてしまう。謎めいた宇宙空間みたいなこの場所に、いろいろな星・いろいろな灯りがともっていると思えば、よく知らない人が暮らす窓辺にも温もりがあるんだろう……という気持ちになれる。

大事なことは、日々の小さなトゲトゲじゃなくて、風のない春の海の波のようなうねり。波長が長くて、ゆったりとしたうねり。1分2分じゃない。今週中でもない……。寄せては返す、波のような。あたたかくゆるやかな。必ず聞こえている、人の暮らしの、低音のようなぬくもり。

理科の学習は「理由はどうだろうと、それはそうなっている」という観察から始まる。モノゴトに対するそういう接し方は、私にはとても優しい世界に感じられる。例えば、ある子が目の前にいたとして「なぜこんな振舞いをするのか?」よりも、まず「この子はこういう子だ」という受容から始まるように。

なんにもしてやれないな……と思うことがある。いろんな子が、自分の生い立ちや暮らしを携えているとき。一人の人の尊厳の姿。せめて彼らが学校に来たときに、柔らかく「おはよう」って顔を見て言えるような自分だけは保っておきたい。それすら難しい時があるにしても。その子を見て、挨拶したいんだ。

感情は時として滝のようだし、思考は時としてもつれた糸のようだ。どちらもそういった性質があるだけ。悪いとも思えない。状況を切り拓く強さにいつでもなるわけでもない。滝と、もつれた糸とを手にしながら、少しは自分らしく歩いてみたいものだ。善でも悪でもなく、強くも弱くもなく。

『草原の手帳から』という名の小さな本があった。草原で拾った手帳にはこんな言葉が書き留めてあった……という語り出しで始まる短文集。ラストでは「手帳の文字は、雨風でかすれてよく読めなくなっていた」といった風情で締め括られていた。あの潔さと軽やかさが残した余韻に、時々浸りたくなる。

「説得力」って、こっちを見て話す人からしか伝わってこないんだよな……。って、子どもたちは思ってるようです。大人として仕事の話をしていても同じです。話が下手か?そもそもこっちの状況・思いがちゃんと見えてるのか?聞き手はそこばかり気にしてます。時として正しさは全く貫通力がなくなる。

子どもが「可愛い」という感情は、どこか身勝手なものだろう。片思いのような、一方通行な気持ち。何かの拍子に、それまでの「可愛い」が一転して「可愛くない」になるおそれをはらんでいる。「子どもが可愛い」ことは両刃で、絶対善ではない。子どもは「おもしろい奴だな」くらいに眺めていたいなぁ。

ぼーっとすると、どこかへ流されてしまうと焦りながら生きてきた。子ども時代は、ぼーっとしていてもどこにも行かなかった。大人になるって舵取りの必要性に迫られることだと思っていた。ぼーっとしてみても、そう簡単に自分の性根が変わるものでもない。残念でもあるけど、安心してもいられる。

学校に適応させるのか、学校を子どもに適応させるのか……の話には結局ゴールがない。本来、力いっぱいやる必要もなかろうと思う。それなりの妥協点、なにがしかの曖昧さ。中庸。ぼんやりしたグレー地帯でいろいろな状況や人と折り合いながら自分を保つ事に、安心できない時代になっているのか。

ザ・小学生なネタで娘と盛り上がり、久々に笑いすぎで腹筋痛くなってしまった。笑いのツボ浅すぎて、笑わすの楽しい……。関係ないようだけど、数学で笑わすのはなかなかタイヘンだけど、理科ではしょ〜もない例え話するのが大好き。本当言うと「理解のツボ」部分なんだけど。やっぱり笑えないとね!