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神は命をどのように見ておられるのでしょうか

 
神は万物の創造者です。創造物の中でも、とりわけ奇しいのは生き物の誕生でしょう。
まず最初の人間の創造に思いを馳せることにしましょう。
今ここでこう書いているのは「命」とは何かを追求してみたいからです。

神が創造された最初の人間アダムは、造られた直後は生きていませんでした。といっても「死んでた」というわけでもありません。
人間を物理的に(つまり「体」を)造り終えた後、もう一つ、創造とは別の工程というか処置が必要でした。
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者(ヘ語:ネフェシュ、魂)となった。」創世記 2:7
[a living soul]-KJB

アダムが生きている人間になるためには「命の息」が入れられる必要がありました。
この行為は「創造」の範疇には入らないと私は考えています。
これは、たとえば、天地創造記述の中のヘブライ語「バラー」と「アサー」の違いと同様でしょう。
具体的な例を挙げるなら、次の聖句です。
「神は二つの大きな光る物と星を造り、・・・神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ・・」創世記 1:16,17
ここで「2つの光体を造ってゆかれ」と訳されている部分に用いられているヘブライ語は「アサー[made,bearing」であって「初めに神は天と地を創造された。」に用いられている、「創造」は「バラー[ccreated]」という語が用いられています。
太陽と月は、この時点で創造されたのではなく、それより過去に創造され、すでに存在していた太陽の光が、地球の大気が澄んでゆくに従い、地上から、はっきりとそれと認識できる段階に至ったことを「二つの大きな光体を造られた」と表現しているのです。

(意外なことに創世記1章には創造(バラー)という語は3回しか使われておらず、無から有を生じさせたのは、地と動物と人間だけです。(創世記1:1,21,27)

少し話が横道にそれた感じですが、ここで言いたいのは、創世記2:7の記述はこういうことであろうと考えられるということです。つまり『アダムが塵から創造(バラー)された後、命が吹き入れられて生きた人となった(アサー)』ということです。
なぜ、こうした説明になるかというと、「命」は「命の源」である神から移されたものであるということを明確に理解しておきたいからです。

「命」を意味する「血」を食べてならない、という禁令からも判るように、「肉」や「青物」は与えられましたが、「命」は与えらているものではないということです。
人に与えらているのは「命」の、いわば使用権であって所有権ではないというのが私の考えです。ですから、命に関して責任を問われることになります。
「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。」創世記 9:3‐5

人が死ぬと霊つまり生命は、なんと律儀なことに、もれなく神の元に返ってゆくことになっています。

「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」伝道者の書12:7
「もし神が御自分にのみ、御心を留めその霊と息吹を御自分に集められるなら生きとし生けるものは直ちに息絶え人間も塵に返るだろう。」ヨブ 34:14-15

「命」は与えられたものでも、親からもらったものでもなく、単にシステム的に受け継がれて来たものでもなく、レンタルされているものなのです。
「神は万物の作り主」という言葉を最初に挙げましたが、神が創造されなかったものがあります。言うまでもありませんが、それは神ご自身です。
そして、そのうちにある「霊」あるいは「命」は創造物ではありません。
さらに言うなら、「神の像」と表現されているもの、また神性、神の「特質」と言われているものなども皆、創造物ではありません。
「命の与え主」という表現が使われますが、厳密に言うとそれは間違いだということが判ります。
あえて言うなら神は「命の分け与え主」もしくは「命の貸主」というべきで、アダムに分け与えられた「命」が肋骨を通してエバに受け継がれ、そして全人類に分け、貸し与えられ続けてきたのです。

さて、実はここからが本題です。
神は実際のところ、被造物の「命」をどう見ておられるのでしょうか?
神にとって「命」が貴重なもの、神聖なものということを示す記述は随所に見られます。
「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」マタイ 10:29
「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。」。エゼキエル 18:31‐32

しかし、実際には、古代において大勢の人が神の裁きで死に、神の後ろ盾を得た戦争で敵の兵士の多くが殺されました。そして結局ところ、これまでに生きたすべての人間はアダムからの罪のゆえ死にました。
病気や事故で若くして死んだ人、生まれてすぐに死んだ赤子、天災で死んだ人、犬死のような死に方をした人も少なくないでしょう。
ただ、それらの人々に対して、「復活」というプログラムが用意されています。
これは、やはり命は尊いものだということでしょう。

ヨナ書の中に「生きとし生けるもの」への創造者なる神の深い思いが、ヨナに対して教え諭す仕方で語られています。
「主はこう言われた。お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」ヨナ 4:11


調査したところ、「今、世界人口は毎年約7800万人のペースで増加しており、1日に換算すると約21万人、1分に換算すると約148人になります。」ということです。

およそ810分ほどで、当時のニネベの人口12万人の命が誕生します。つまり13.5時間です。
わずかこれだけの時間で満たされる人数の人々を悔い改めさせ、命の貴重さをヨナに教えるために、そしてそれを記録して今日の私たちに教えるために何と言う労力がつぎ込まれたのでしょう。
ともかく神はそれらの人々を惜しまれました。 
しかしそれらの人々も他の人と同様、死にたえました。

単に「命」を惜しまれたのではなく、「人々」を惜しまれました。
ここで、復活についてもう少し話を進めたいと思います。

「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。」使徒24:15

一度限りこの世に生を受けた人、たとえばここに一人の人(Aさん)がいます。彼は生まれてきた人は死ぬのが当たり前、復活など聞いたことも考えたことも当然一度もありません。
このAさんを神は覚えていて復活させるスケジュールを持っておられます。どうしてでしょうか。
どれほどその人が優秀で、有用で愛すべき特質を持っていたとしても、今後幾らでも似たようなタイプの人は生まれてくるのです。あるいはどの点から見ても非の打ち所のない人が、これから無尽蔵に生まれてくるのです。ここでいくらこんな言葉を繰り返したとしても、復活の取り決めの価値をいささかも減じさせることはないのです。どうしてでしょうか。

それは、一度限りこの世に生を受けた人は、やはりその人以外の誰でもないというのが、神のお考えでしょう。
だからこそ「復活」という取り決めがあるのです。
ただ、その人が永遠に失われるのを惜しまれるからです。
単に「命」が惜しいのではありません。Aさんが惜しいのです。そうです、神にとって誰とも違う「あなた」がいとおしいのです。

人間がどれほど多くなっても、その数に応じて、その関心や思いが薄くなるということはありません。子供を持っておられる方なら、一層よくわかりますが、3人であろうが5人であろうが、その一人一人に対する思いが1/3や1/5になったりはしません。これが子供に対する親心で、同様に人に対する神心です。

文字通り無数にある星々を「その名で呼ばれる」神はその一つ一つに名前をつけておられるということです。
もちろん太陽のように絶対不可欠な星もありますが、塵の塊のような星、(あるいはおそらくプラズマ)も無数にあるのです。
神の像に造られた人間は無生の星とは比べ物になりません。
なにしろ「我が子」のひとりですから、何人いても、何十億人、何千億人いても一人一人が「我が子」なのです。
羊飼いイエスはご自分の羊を名前を呼んで導き出すと書かれていますが、み父も、あたかも名前を呼んで人をハデスから呼び起こされるのでしょう。

聖書の神は「人格神」と表現されます。単なる力の象徴ではなく、人格をもたれる神であると言うことです。そういう訳で神の様々な特質の中で、とても人間らしいところがあると私は思っています。
もっとも、本当は神に人格があるのではなく(神に人間の性格があるのではなく)、人間の方に神格がある(人は神の像に似せて造られたのですから)といのが正しいわけで、本来なら神を人格神と呼ぶのではなく、人を神格人と呼ぶべきなのだろうと思います。
ですから人の内にある「人間味」と表現される人間らしい部分は実は神らしい部分なのです。
さて、その神の人間らしい特質と述べたのは、「愛着」という特質です。「公正で偏りみない」という属性を持たれるという知識を持って聖書を読むと、時々「?」と感じる記述に出くわすことがあります。実際、ある特定の人物に対する特別な思い入れを強く感じさせる箇所は随所にあります。
たとえば、次のような聖句です。

「わたしに聞け、ヤコブの家よイスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」イザヤ 46:3‐4

人間が普通に考える以上に神は愛着という特質を強く示しておられるように思います。
復活の取り決めは、公正さや公平な機会が与えられるという以上に、その一人一人に対する個人的な愛着のゆえんに他ならないものでしょう。

しかし、多くの教会の教えでは、まもなく到来するハルマゲドンの時に、救われる僅かな人を除いて、ほぼ全人類が永久に滅ぼされて地獄に落ちることになっているそうです。

「世界人口白書2021」によると、現在の人口は78憶7500万人ほどだそうです。
そして、世界のクリスチャン人口は 21億8千万人ほどだと言われています。
更に、クリスチャンを自認する人のうち、救われるものは少なく、滅びの道を通るものの方が多いと述べられていますので、仮に半分だとしても救われるのは約11億人のみということになります。
仮に近い将来にハルマゲドンが生じるとすると、残り68億人は滅ぼされるという見込みということでしょう。
聖書から知る神と、この滅びの話はあまりにもかけ離れ過ぎています。

中には、自分は患難の前に携挙に与るので、神に感謝!とか言っている人もいますが、私の言わせれば、「後は野となれ山となれ」的なご利益主義信仰は哀しいかぎりです。

「 わたしはだれの死をも喜ばない。」「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか」と言われるその方は68億人を本当に惜しまれないのでしょうか?

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