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神が「善悪の知識の木」を置かれたのはなぜですか。

まず、タイトルに関連した聖句を引用しておきましょう。

「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」創世記2:8,9

これは、アダムが造られた直後、まだエバのいない時でした。
ですから神の創造の業は継続中であったわけですが、従ってこの2本の木は当然「創造者」としての人間に関わる、特別な目的を有する重要な創造の一つでした。

神は人間のために、地とその環境を整えられました。すべて完璧な状態で、モデル地区としてのエデンに園を設け、そこが最初の人間の住まいでした。

ところで、「理想郷」という言葉がありますが、「理想」とはどういう意味でしょうか。
時に「単なる理想」などとネガティブに使われることもありますが、クリスチャン たる者、そんな捻くれた発想ではなく、純粋に、辞書に記されている次の説明を思い描いてみてください。
「理想:考えうる限りの望ましい事象を悉く具備させた状態」
そうです。この地は、そしてエデンの園は、他ならぬ「全能者が」考える得る限りの望ましい事象を、余すことなく実現させた場所でありました。

さて、生まれて間もないアダムとエバは、あたかも身体は大人だけど、中身は赤ん坊同然のような、ほとんど何も知識のない状態だったかのようなイメージを持つ人もいるかも知れませんが、それは間違いです。

彼らに最初に与えられた神の指示からも明らかですが、彼らは、基本的な言語の知識も、動植物を管理する方法も、地を耕すなどの農耕に関するノウハウなども皆、備わっていたはずです。

しかし「善悪の知識」の木と呼ばれているので、どうしても、その実を食べた後、得ることになる何らかの善悪に関する知識を象徴しているかのように思われがちですが、もしそうなら、その木の実をずっと食べずにいたら、「善悪に関する知識」は生じなかったのでしょうか。そんなことはありません。
実際、それは禁じられたものでしたから、本来なら、食べることはなかったはずです。神からのその禁令を忠実に守っていたら、人間は未来永劫、何の善悪の判断を得る事はなかったことになります。
もしそうであるなら、神のかたちを反映しているとは言えないでしょう。

ですから、それは、食べてしまったために生じた、善悪の認識ではなく、当然、造られた当初から彼らには「善悪の判断、知識」は備わっていたと考えるべきでしょう。

では、神はなぜ、「善悪の知識の木」を設けられたのでしょうか。
その木はどんな必要にかなっていたのでしょうか。
創造の6日目の最後に人間を造られた時、すべては申し分なく備えられていて、何一つ不足はありませんでした。
しかし、唯一まだ、その時点で存在しなかったものがありました。
それは神と人間との「関係」というものです。
他の動物の場合この「関係」は存在と同時に「創造」されていました。
しかし人間の場合はそれとは異なり、「創造」されていませんでした。
なぜなら神にとってそれは、双方から「生まれる」べきものだったからに他なりません。

まさしく「善悪の知識の木」は、人と神との「関係」あるいは「絆」を創り出すために不可欠のものだったということです。
もう少し掘り下げてみましょう。

ところで「善悪の知識の木」というネーミングですが、馴染みのあるフレーズですが、改めて考えてみると幾分謎めいたというか、風変わりな表現のようにも思えます。

まず「知識」に注目してみましょう。
「知識」と訳されているこの(ヘブライ語:ダース 英語:knowledge)は、確かに多くの箇所で、単に「知識」と訳されますが、意外に思う訳語が用いられている箇所をご紹介してみましょう。

「ヘ語:ダース」は申命記4:42,19:4 や ヨシュア記20:3,5などでは、「予謀」(前もって周到に計画すること)、「故意」という意味の[intentionally,premeditation]という語が当てられており、新共同訳では「意図的」と訳されています。

例:「意図(ヘ語:ダース)してでなく、過って人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい。」
・・・彼がその隣人を殺したのは意図的(ヘ語:ダース)なものではなく・・・」ヨシュア2:3,5

つまり、「善悪の意図の木」とも訳し得るということです。
こちらの方は単なる知識というより、より積極的な核心的な感じです。

次に「善悪」についても同様に原語から見て見ますが、「悪」(ヘ語:ラー bad,evil)はシンプルにそのままの意味なので、主に「善」の方を調べて見ましょう。

「善」 ヘブライ語:トーブの本来の意味 pleasant 楽しい、快い, agreeable 快適, good 良い。
これも、単に「善」というより、どちらかと言うと「高評価」の際に用いられているのが分かります。

「「光あれ。」こうして、光があった。 神は光を見て、良し[トーブ]とされた。」創世記1:4
「好きな[トーブ]所にお住まいください。」 創世記20:15
「リベカが美しかった[トーブ]ので」 創世記26:7
「その子がかわいかった[トーブ]のを見て」 出エジプト2:2
「自分を気に入って[トーブ]くれた」民数記36:5
「命と幸い[トーブ]、死と災いをあなたの前に置く」申命記30:15
「ギデオンのすべての功績[トーブ]にふさわしい誠意を」 士師記8:35

それで、この「善」も単なる、「思考」による判断ではなく、むしろそれは、感情を含む、「嗜好」的な感覚や傾向をもったものだということが分かります。

神が最初の人間に「善悪の知識の木」を園の中央に置き、その実を禁じられたことによって、そして人には、その禁令を守り続けることによって、自分たちを生み出され、あらゆる物を備えられた「創造主」を正しく認める以上に、親しく求める姿勢が見られるか、神への柔順の認識は快いものか、今後の神とのコミュニケーションを積極的に望んでいるか、もしくは、厭わしい、煩わしい存在という認識でいるかを恣意的に、或いは意図的に示す機会を生み出させる動機づけとなったということであろうと考えられます。

これらを総合すると「善悪の知識の木」とは、人が、自分は神との関係を喜ばしいものとして心から受け入れていることを意図的に表明することを明らかに示すことを可能にする目的で置かれたものと言えます。

ですから、より的確に訳すなら「快諾か忌避かの選択の木」ということになります。
定番化している「善悪の知識」という固定された訳語から、様々な誤解が生まれ、それを象徴する木を生じさせたという捉え方の故に、不可解な困惑や創造者に対する懐疑的な感覚を助長させてしまっているのです。

例えがちょっとなんですが、反抗期に「産んでくれと頼んだ覚えはない」などと親に向かって不届きなことを口走ることが時にあると、よく言われるフレーズですが、倫理的に自由な思考を抱くことのできる「ヒト」という存在が、「自分は創造者の都合で勝手に存在するようになっただけという認識」でいるなら、神にとってこれほど哀しく情けないことはないでしょう。これでは「親の心、子知らず」ならぬ「神の心、人知らず」になってしまいます。

しかし神は、敢えてその認識をごく自然な形で示すようにされ、あたかも、創造者と被造物との契約書を作成され、双方の完全な合意の上での、「神と人」という「関係」を築こうとされたのでしょう。

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