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神の実体は誰にも知り得ないと断言している聖句について

イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
」(マタイ 11:25-27 新共同訳)

同じ内容のルカからの引用です。
子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」(ルカ 10:22)
(ところで、ここは「神」に関する知識という極めて重要な話ですが、「聖霊」はこの件に関しては一切関わっていないようです。)

この聖句をそのままに受け取るとすると、まず、「み父」については、キリストご自身は当然として、それに加え、キリストが知らせ(理解させ)ても良いと思われた人だけは、「父」を知ることができる。ということです。
「父」を知る得るかどうかは、「全てを任せられた」み子イエス・キリストに全く依存していると言うことが解ります。
と言う事は、キリストを受け入れなかった(認めない)ユダヤ人は、いつの時代であっても、誰も神(父)を本当には知らないということになります。

しかし、「み子」については「父」以外は誰も、その本来の姿というか、実体については知らないということです。
何と「誰も見たことがない」み父以上に、人間となって人々の間に生活された、み子こそ、よりミステリアスな存在だと言うことです。

「父」よりも「子」を知る方が難しい。と言うより、「子」を知り得る人間はいないと言う事になります。
これは、「十分によく理解することができない」というニュアンスではなく、原語でも端的に「父以外に、誰も子を知らない」と記されています。
ともかく、ご本人がそうおっしゃっておられるのですから、このタイトルに腹を立てないでくださいね。

しかし、書簡には、「キリストの愛」やその深い思いやりなどに関する表現が多数見られ、弟子たちはみな、キリストを深く知り、よく理解していたと思わせる記述は少なくありません。

キリストの愛がわたしたちを駆り立てている。…」(コリント第二 5:14)
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソス 3:19)

これらの記述から、キリストの深い愛や、その人格的な特性などはひしひしと感じとれるとしても、み子が実際「どういう方なのか」、と言う、その正体、実体については、今のところ誰も知り得ていない。ということでしょう。

にも関わらず例えば、ある説明によれば、「三位一体の神とは、父、子、聖霊という三つの位格(ペルソナ)を持ちながら唯一の本性を持つ神、ということです。」などと断言しています。
そして、最初聞いて不可解に思えても、「神学の勉強が進むにつれて、換言すれば神の全貌が見えるようになると、その神秘は言葉では完璧に表現できないが納得のできる教えであると分かって」来る。と解説しています。

当の本人が、わたしの正体は「誰も知らない」と述べているにも関わらず、第三者がいかにも知ったかぶりで、「み子なる神は・・」とあーだこーだと解説しているのはどうしてなのでしょうか。

キリストご自身の言葉は、「子がどういう者であるかを知る者はない」。と断言されていますので、「神学の勉強」などによって「神の全貌が見えるようになる」ことはあり得ないと言えます。
「・・こう考えられるが、「誰も知らない」と言われている故に、今のところ、神とは誰か、(何か)と言う事を断言できる聖書的な根拠がありません。」と言うのが、本来あるべき「神学」の姿勢ではないでしょうか。

「(聖書に)書かれていることを越えない。」(コリント第Ⅰ 4:6)ことを学ぶ必要があるでしょう。

勘違いしないでいただきたいのですが、私は決して三位一体を否定しているわけではありません。
「子が【どういう者】であるか誰も知らない」とキリストご自身が明確に断言なさっているので、否定も肯定もしようがないというか、どちらにしても、断言できる根拠は何もないというのが事実なのですから、私ごときが「三位一体に根拠がない?絶対にそんな分けない!長い年月を経て、誰もが認める確立された教理だ。」などとキリストに逆らって言う理由もありませんし、言うつもりもないということです。

「誰も子を知らない」というキリストご自身のこの言葉に言及した箇所は調べた限りでは、ここで引用したもの以外、聖書中の他の部分には見当たりません。
時間、年月の経過と共に「み子」を知る時が来ると言う明確な形での示唆もありません。あるとすれば、クリスチャンが天に召された後、と言う事しかないでしょう。
実際、キリストに「父」を知らせてもらえた人だけが本物のクリスチャンとなり、天で、神とキリストに直面することにより、その時始めて、「父」と「子」の実体を「知る」ことができるでしょう。

ですからこれはキリストの愛や思いを知ると言う事とは別の次元の話のようです。
「み子」の本質的な実体については、未だ謎のままと言えそうです。

少なくとも、キリストご自身の素性、本性、正体を知った、あるいは理解したつもりになっても、それはどこまでいっても勘違いの域を出ない程度でしかない、と言う事を思いに留めておく必要があるのではないでしょうか。

「子」がどういう者なのかは「誰も知り得ない」とみ子ご自身が断言されているのに、神の実態を理解、あるいは「確信」していると感じているなら、そこには危うさ、脆さが間違いなく内在しているでしょう。
神は三位一体かもしれません。しかし、全くそうでない可能性も否定はできないという事実を覚えておくべきでしょう。
それは危惧して然るべき神学、概念だからです。

ところで、なぜ? どうして、「誰も知らない」、で済まされたままなのでしょう。せめて、み父の場合と同じくらい、み子についても、「知らせても良い」と思う人にだけは、明らかにします。 となぜ言われなかったのでしょうか。
せもてもう少しくらい、情報が与えられていたら、他ならぬ「神の実体」について、こんなに神学上の論争と困惑を極めるような事態にはならなかったでしょうし、ユダヤ人たちも、もっ と大勢の人がキリストを認めたかも知れません。

しかし、キリストが神であることや、父との関係などについての聖書の情報は極めて乏しく、 曖昧なままになっています。
イエスは神なのか、人間なのかといった論争も消えそうにありません。
それは、恐らく意図的にそうされたのでしょう。 真に望ましいあるべき信仰の形というか、真に重要なことは何かを各人が識別できるかが試されているのでしょう。

それが、明らかにされなかったのは、「必要では無い」と判断されたからに違いありません。 み子とみ父との関係に関する詳細な情報や、その神性に関する情報が、本当に必要であったな ら、それを明確に示されたはずです。

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ 8:32 )

しかし、これは、神を模索することが不必要、無意味ということでは、決してそうではないでしょう。 なぜなら、神は人間に、ご自分を「求め」「模索し」「見いだす」ことを望んでおられること は明らかだからです。

神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、 彼らの居住地の境界をお決めになりました。
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおら れません
。」(使徒 17:26 ,27)

では、どうなのでしょう。「子がどういう者であるかを知る者はない」と言われ、誰も知り得ないのに、どのように神を探しもとめ、見いだすことができるのでしょうか?
これらは矛盾しているのでしょうか。 わたしはそうは思いません。
「神を求め、見いだす」ことと、神の実体(神学上の難解な論文や論争)を極めようと試みる こととは、全く異なることであることに気付くべきです。

ご本人自ら「父以外誰も知りません」と断言しておられるのですから、分かったような顔をして、難解な神学をゴリ押しするより、実態は「誰にも分からないんです」でいいじゃないですか。


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