見出し画像

「義人が辛うじて救われる」とはどういう意味ですか

《義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。》Ⅰペテロ4:18

様々な、どの解説を見ても、クリスチャンにとってさえ「神の裁きの日」に救われるのは極めて過酷なものであるという見解で共通しているようです。
果たして本当に、この聖句はそうしたメッセージなのでしょうか。

ここで「救い」と訳されている語は「ギ語:ソゾ(動詞)」です。
聖書中に「救い」という2文字を見出すと、すぐに、罪からの開放、つまり神との正しい関係の回復、恒久的なものを意味すると捉えがちですが、必ずしもそうではないケースもしばしばあります。

下記に挙げたものはその例です。

《お着物にさわることでもできれば、きっと【治る】(ソゾ)》マタイ 9:21
《風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し「主よ【助けて】(ソゾ)ください」》マタイ14:30
《イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、【いやされた】(ソゾ)》 マルコ6:56

「ギ語:ソゾ」は汎用的な語であり、一時的、物理的な物事「治る、助かる」という意味でも使われています。
そして今考慮している Ⅰペテロ4:18の「救い」は後者であると考えられるということです。
そう言える根拠ですが、この1節は、箴言からの引用文だということにあります。新共同訳では、これが引用であることが分かるように次のように訳しています。

《「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。 》

ではその引用元の箴言11:31を取り上げててみることにしましょう。

《正しき者がこの地上で報いを受けているなら、悪しき者や罪人はなおのことである。》聖書協会共同訳
《神に従う人がこの地上で報われるというなら、神に逆らう者、罪を犯す者が、報いを受けるのは当然だ。》新共同訳
《もし正しい者がこの世で報いを受けるなら、悪者や罪人は、なおさら、その報いを受けよう。》新改訳
《もし正しい者がこの世で罰せられるならば、悪しき者と罪びととは、なおさらである。》口語訳
《みよ義人すらも世にありて報をうくべし况て惡人と罪人とをや》文語訳

論議を始める前にまず、抑えておきたい論点があります。
まず1つに、ペテロ第一の手紙には少なからず「預言」が含まれていますが、その全てが預言というわけではなく、また預言的な描写と捉えられ得るというような根拠もない、当時の状況とそれに対処するための多くの励ましの言葉で構成されているという事を踏まえておく必要があります。

そしてもう一つは、「神を敬わない者」という表現や、上に引用した、箴言11:31では「神に逆らう者」と訳されていますが、他の翻訳にあるとおり、原文に用いられている単語は単に「悪人と犯罪人」という語であり、信仰や神との関係を示すニュアンスはありません。

さて、箴言11:31で「報い」と訳されているのは「ヘ語:シャーラム 意:報いる、払い戻す、返還」です。

この文章はどういう意味でしょうか。普通に読む限り、「義者が(その当然の報いとして良い結果を得るのであれば、当然悪人はその報いとして「悪い結果」を被る」という意味のようにとれます。

しかし、文語訳では「義人すらも」とあり、口語訳に注目してみてみますと、《もし正しい者がこの世で【罰せられる】ならば》悪人は【なおさら】罰せられるという意味を伝えています。

次の英訳は興味深いものです。
《If the righteous lives with hardship, where will the wicked and the sinner be found?》Aramaic Bible in Plain English
直訳:「義人が苦労して生きるなら、悪人や罪人はどこにいるのでしょうか」

これらの訳をみますと、ここでの義人への【報い】とは、悪い、辛い類のものだいうことです。その背景にあるのは「この地(世)」からの報いだからということなのでしょう。

《彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。》Ⅰペテロ4:5

こちらの捉え方を支持する理由は、1世紀当時、用いられていたとも言われる「セプトゥアギンタ訳」にあります。
以下はその引用です。
《εἰ ὁ μὲν δίκαιος μόλις σώζεται, ὁ ἀσεβὴς καὶ ἁμαρτωλὸς ποὺ φανεῖται;》
そして、ペテロが記している引用文はコチラです。
《καὶ εἰ ὁ δίκαιος μόλις σώζεται, ὁ ἀσεβὴς καὶ ἁμαρτωλὸς ποῦ φανεῖται;》
どこが違うかというと、ペテロはこの70人訳の[ μὲν ](真実に)という語を省いて文頭に[ καὶ ](そして)を付しているだけで、まるまるコピペと言えるということです。

ここで改めて、2つの聖句を読み比べてみましょう。
《義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。》Ⅰペテロ4:18
《もし正しい者がこの世で報いを受けるなら、悪者や罪人は、なおさら、その報いを受けよう。》箴言11:31 新改訳

「セプトゥアギンタ訳」は「この世で報いを受ける」というヘブライ語を「かろうじて救われる」と翻訳しているということです。
「この世からの報い」=「【助かる、治る、癒される】ことが難しい状況に直面する」という概念です。

そうでないと「なおのこと当然だ」という意味が通らなくなります。
義人に不遇があるなら、悪人ならば、もっと酷い処遇ということです。

それで、ここで「救い」という単語が「セプトゥアギンタ訳」経由で引用されますが、それは、罪からの究極的なキリスト教の「救い」という意味ではなく、一般的な「助け」という意味であること。また「正しい者」とは信仰を働かせるクリスチャンを指すものではなく、単に品行方正な人のことだという事が分かります。

すなわち、ともかくこの1節は「クリスチャンであっても、終末に救われるには困難を伴うというような考えを伝えている」文章ではないということです。
この事を踏まえた上で、これらの一連の聖句の流れをまとめておくことにしましょう。

■ さばきが神の家から始まる時が来ている

一つ前の17節に注目します。
《なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。》Ⅰペテロ4:17

この「さばき」とは何でしょうか。
「ギ語:クリーマー 意:裁き 判定 非難 訴訟 評価」
記事の冒頭でこのペテロの手紙のこの部分は「預言」ではない可能性を示唆しましたが、ここに記されている「さばき」は神からの裁き、ではありません。なぜなら、すでに「その時は来ている」。つまり西暦1世紀にそれがなされているとはっきり記されているからです。

《今こそ、神の家から裁きが始まる時です。》Ⅰペテロ4:17 新共同訳

神の裁きが教会に及ぶのは終末期、(契約の使者)キリストの再臨時です。
(マラキ3:13を参照してください)

「裁き」と聞くとつい「神からの裁き」というふうに思いが傾きますが、この語は上記の様々な語に訳されています。実際「神のさばき」とは言われていません。

「裁き」ギ語:(クリーマー)の用法を幾つか見てみましょう。

《互いに【訴え】(クリーマー)合うことが、すでにあなたがたの敗北です。》Ⅰコリント 6:7
世俗の裁判で争うクリスチャン同士の訴訟のことを述べています。

《初めの誓いを捨てたという【非難】(クリーマー)を受けることになるからです。》Ⅰテモテ 5:12

悪意に満ちた「非難や訴え」などが「神の家から始まる、まず私たちから始まる」ということはいずれ、その他に波及するということです。
すなわち、クリスチャンをさばき、非難し訴えていた人々は、最終的には神により裁かれ、非難し返され、評価され返されるでしょう。

「神の家、わたしたち」 と対比されているのは「神の福音に従わない人たち」と表現されています。
18節の表現は「義人」に対して「罪人」です。
この違いを混同すべきではありません。18節は神の摂理という概念を示すもので、クリスチャンに直接適用されるものではないということです。

ペテロがこの手紙で述べているのは、終始一貫、苦しみ、試練に対する正しい見方です。

《愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。》Ⅰペテロ4:12:13

クリスチャンに対する迫害が本格的になってきた当時の状況を「さばきが神の家から始まる時」と表現しているということです。
そして、それにひるまず、むしろそれは、「義人」であるという評決、身分証明書にほかならないゆえに、決して「恥じてはならない」という強力な理由付けとなると励ましているのです。

そして、行いの正しい人でさえ、この地上では(この世では)(ひどい)報いを受けることがあるのであれば、悪人は更にひどい当然の報いを受けるはずだ。
悪人、迫害者が何の報いも受けずに放置されることはないはずだから、だから、こころ穏やかに、善行に励み、悪人の報いを神に委ねなさいと述べているのです。

結論ですが、たしかに終末期に「666」という獣のしるしを受けようとしない人々は相当な困難を経験することになるのは確かですが、しかし、忠実な神のお約束により、「救いは確実」なものであり、ペテロのこの聖句に関していえば、決して「クリスチャンが辛うじて救われる」と言っているのではないということです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?