見出し画像

あなたはクリスチャンとして、「悔い改めた」ことのある人ですか。最大級の悔い改めとは?

ほぼ一貫して「悔い改め」と訳される原語は(ギ語:メタノイア 名詞)で、この語は「メタノエオー」 という動詞から派生したものですが、その語の成り立ちは「ノエオー」という動詞に「メタ」という前置詞がついた複合語です。

「メタ」は、後に、後からという意味であり、「ノエオー」は考え、理解という意味の語です。
字義的には 「後で考える、後に理解する」。もっとも的確な訳は「後から考え直す」ということです。

つまり「考えを改める」ということで、言葉の本来の意味から厳密に言うと 心の問題ではなく、思考の問題であり、少なくともこの語自体には「悔いる」というような心の作用は何ら含まれていません。

間違い、勘違いを取り除いた、正確な知識にもとづいて、理性と識別力を働かせて、それまでの自分の「考え」を変更することを神は願っておられるということです。

広い門を入ってしまっていることに気づいたら、狭い門を入り直せばいいだけのことのように思うのですが、現実には、とても難しいようです。
だからこそ、そうした人は「まれ」だと記されているのでしょう。

これは一つの才能と言ってもいいのかもしれません。

「なーんだ、そういうことだったのか」と認めることができる人と、最初に聞いたことに固執して、新たな情報で思考を働かせることを頑なに拒むタイプに二分されるようです。

簡単に理性を失うことのできるタイプの人は、後にたとえどんな事実を目にしても、一度思い込んだ事柄に関しては2度と再び、物事を理性的に捉えることはできないようです。
つまり、どんな新たな情報があろうとも、改めて考え直してみるということが欠落してしまうようです。

冒頭でも触れた「悔い改め」という語は聖書中に3340回も使用され、けっこう頻繁に現れます。
そしてその殆どは現在形で示されます。ギリシャ語の現在形は、現在進行系という意味合いを持ちます。
つまり、「悔い改めよ」と訳されている部分は「考え直し続けよ」という意味でもあります。
かつて一度、「私は悔い改めてクリスチャンになりました」などと言って済ましているのは論外だと言うことです。
言い換えればクリスチャンたる者、「テーゼ」に固執せず「アンチテーゼ」を静かに受け入れ、考慮し、聖書的な根拠を探す姿勢を失ってはならない。ということです。

さて、ここで、確立されているかのようなテーゼを考慮してみましょう。
『三位一体の教理では、父、子、聖霊が同一の神格であるとされますが、同一の人格ではない。
三つの位格は互いに異なる存在であり、それぞれが自己の意思や性格を持っている。』(対話型AIチャットChatGPTによる)

ところで、ちょっと考えてみて頂きたいのですが、あなたは今から300年ほど後に新たに生まれる法律や流行、法則、理論、学問がどんなものか分かりますか ?
正確に予測できる人などいないでしょう。

同様に、当然のことながら西暦1世紀の人々、イエス・キリストご自身はもとより、聖書筆記者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、パウロ、ぺテロ、ユダ)の誰一人「三位一体」の神など知りませんでしたし、予想だにしなかったでしょう。
ですから、当然のことながらそれらの誰も三位一体などに触れていません。

『父、子、聖霊が同一の神格であるとされるが、同一の人格ではない』という、三位一体の神の像に似せて造られた人間という存在は、一人残らず「多重人格」であるのは紛れもない事実だということになります。
今日「多重人格」は『解離性同一症』と呼ばれています。

それはすなわち、もし神が三位一体なら その創造者なる神は『解離性同一症』を患った神であるということになります。
永年にわたり神を精神病扱いしてきたキリスト教会が、神からの断罪を許されることは決してないでしょう。

私はこれまで永年、いわゆる「キリスト教」と聖書に示されるキリストの教えとは全く別物であるという聖書的根拠を数々挙げてきました。
そしてNOTE 内で『「キリストの教え」入門講座』というマガジンを設けています。
ここに、関連記事として、そのいくつかを挙げておくことにします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?