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ラピスラズリ

舞台には、魔法がかかっている。
いや、「魔法がかかる瞬間」がある。

アスリートは、集中力を最大限に発揮した結果、「ゾーン」に入ることができるらしい。

では、私が今いるここはどこなのだろう。


舞台をぼんやりと照らすライト。
先ほどまでは、やわらかなオレンジ色だった。

奥にはお客さんがいる。

光崎大学マンドリン倶楽部の定期演奏会。 
部員29名。

うち、5名が本日引退する。
私の1つ上の先輩たちだ。



木でできた、大小の雫が並ぶ、マンドリンオーケストラ。

ピックを持つ手。
ひたすらトレモロする右手。
忙しなく動く左手。
雫型の楽器に、委ねる。


雨粒の集団にも似た雫の音たちは、音の渦となり、奏者を巻き込む。
客席を呑み込む。
私も、巻き込まれる。

濃青の宇宙が始まる。
そこに、星屑が集まる。光の渦になる。星座ができる。銀河が生まれる。

瞬間、魔法がかかる。泣きそうになる。
この時が、ずっと続けば良い。


高音のマンドリンの音は、星の粒となり、煌めきとなり、
中音のマンドラは、煌めきを乗せて進み、青を目指す。
低音のマンドロンセロは、濃青を描き続け、
クラシックギターは、空間を奏で、刻み、
コントラバスは、宇宙の始まりと終わりを示す。

深い深い濃青に、思わず目が見開かれる。
時節、鮮烈な金。煌めき。

音の渦に巻き込まれる。
その中を、魚のように泳ぐ。呼吸する。
意識は、あまりにはっきりしている。

腕を動かせ。
もっと動け。身体を動かせ。
リズムを動かせ。

もっと、酸素を。酸素を。





魔法がかかったこの空間。
渦に巻き込まれるのが、心地いい。
だが、魔法に呑まれすぎてはいけない。
呑まれると泣いてしまうから。


周りを見る。

魔法に呑まれた奏者が1人。


(紺野先輩……)

紺野先輩は、声を殺して泣いていた。
それでも、コンサートマスターの役割を果たそうとしていた。
1番高音パートの、1番前の1番崖側に座るその責任と重圧を、私は知らない。


濃青。
宇宙。
星。
星座。
銀河。

すべてに呑まれて。
魔法に耐えて。


呑まれてはいけない、
呑まれてはいけない。のに。









あーあ、紺野先輩ともっと一緒に弾きたかったな。


紺野先輩、スパルタ気味だったけど。
たまにしか褒めてくれなかったけど。


卒業したら田舎に帰るって、そういえば言ってたな。


先輩の特別な人にはなれなかった。
でも。






魔法に呑まれた者同士、目が合った。



紺野先輩。





先輩は、呑まれつつも笑っていた。















先輩。
ずっと、先輩の背中を見てましたよ。










引退おめでとうございます。


もう、一緒に弾くこともなくなっちゃいますね。













私の身体は、魔法の渦に溶けた。
抵抗することなく、私はそこに身を任せた。






紺野先輩は、その瞬間を確実に見ていた。

石のような目で。
美しい、猫のような目で。
少年のような目で。

あたりは、濃青。

私の目から落ちたものは、醜いだろうか。
それとも、宝石のように綺麗だろうか。







まるで冷ややかな石のように、私は鮮烈な思いを心に封じた。

この想いは、一生封じ込めておけば良い。
吐き出さなくて良い。







紺野先輩。




さようなら。






私は紺野先輩の流す宝石を、ただじっと見返した。

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