生まれたときから中年(ではないけど)

自分が若いときはなぜ中年以上の人は自分が若者の時の記憶がすっかりなくなっているのか不思議でしょうがなかった。おばさんもおじさんもおばあさんもおじいさんも、まるで生まれたときからすでにおばおじおばあおじいだったかのような言動しかしないので。

今、自分が誰がどう忖度しても正当におばさんである年齢になり、自分がかつて見た「生まれたときからおばさん」のような感覚になっていると気づくことが多々ある。そしてそれはマインドフルネスのいう「今を生きている」感じなのかも、と思う。(いやいや、あんなに良いこととして推奨されている「マインドフルネス」がまさかこんな感覚では無かろうとも思うが)

少年期青年期は自分の未来に想いを馳せ期待に胸をふくらませ、また、自分の過去を思い出しては反省したり恥じたりして過ごすように思うが、中年になる前、青年期後半は特に新しい経験に加え、試練と多忙で日々懸命に過ごしているうちに少年期、青年期の感覚を失っていく気がする。

今、20代前半の人と関わるとき、世代、時代の違い以前に「若者の感覚」が本当に共有できなくなったな、と思う。今はまだ記憶をたどって推測して話すことができているけど、やがてこの記憶も薄れて推測すら難しくなるのだろう。今の若者でなくても、過去の「若者だった自分」ですらもはや他人のようだ。

例えば、高校生のころ、幼児の頃の自分を「他人のようだ」とは思っていなくて「あの時自分はこう思っていた!」と掘り返して怒ってみたり気に病んだり、楽しい思い出も、なんていうか高校生当時の自分と幼児の自分は一続きの自分として認識していたような気がするが、今、若者時代の自分を見ると「まるで他人」だ。

もしかしてこの感覚の原因は人生の中で重度の試練ポイントをどの年代で迎えるか、というのが影響するのかもしれないな。

私は若者時代の自分を「まるで他人」と思い、過去の恥に襲われることもなく、未来の可能性に胸を膨らませることもなく、淡々とおばさん年代の自分を生まれながらにこのようだったかのように生きている。

それは別に不幸なことではなくて「new自分」なのかな。

昔は期待しては玉砕して自分の感情に振り回されていたが、それが若者らしさを強めていたのかもしれないな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?