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私を慰める香り

私の望みの表と裏のことを思いつきましたので、それを香りの好みと絡めて書きます。

いつでも優等生でいたいと思っていました。手のかからないいい子であれば大人は助かるだろうし、私は褒めてもらえるかもしれないし。そういうことが続いて、大人になったときのゴールと、うまくいかなかった時のリカバリーがなにもわからない状態で、もう大人なのに大人になりたいと思うだけの特殊な時間軸を生きているみたいな人間が仕上がりました。
今でも大人にならなければという焦りはあります。非恋愛族なので結婚や出産などのわかりやすいライフステージの変化はないので、どうにかしてそれ以外のやり方で自立した人間であることを表示できなければ失敗したきりの人生みたいだと思えて仕方がないのです。何に対して表示するのかというと両親です。私に注ぎ込まれた資源の諸々が無駄になったまま終わってしまうのはあまりに申し訳ないと思いますし。姉と兄が(世間一般の基準において)至極まっとうに生きているのもその思いに拍車をかけています。
この大人志向はもしかすると本質的に大人になれていないことを本当はわかっていたからかもしれません。足りない部分を補おうとする、あるいはなんとかして取り繕おうとする行動。「ねばならない」「であるべき」という思考が私にはものすごく多いのです。自分を何らかの型にはめて、それで立派に見えたらいいなと。
甘さやかわいらしさのようなものはさまざまな理由で遠ざけていました。それらは子どもっぽさの象徴、あるいはかわいい子だけに許されたものであるからと。私は私を構成するものから甘さを排して大人を演出しようとしていたのです。イメコン案件なのですが、盛り耐性こそあまりないものの甘さや柔らかさはむしろ必要なほうでしたので、演出されたのは大人っぽさというより冴えない地味さになってしまったわけですが。
また、飲酒についてもこの考えはついてまわり、そもそも酒の味がさほど好きではないという事実を受け入れないまま、ウイスキーをロックで飲むとかそういったことをしていました(幸いにしてアルコール耐性はあるので醜態を晒したことはありませんが、おいしく飲めたことは一度たりともありませんでした)。

己の未熟をきらい大人になろうとすることまで含めて個性といえるかもしれませんが、どうにもそれが本来の望みということもなさそうと気づくきっかけになったのが香りの好みです。
香水にはしばらく無頓着でした。高校生のころにプレゼントされたエンジェルハート ヴェローナに始まり、私の香りはいただきもので構成されていました。ただ、ひょんなことからあるとき使っていた香水があまり好きではない芸能人と一緒であると知り、その人のフォロワーのように思われたくはないというしょうもない理由で香り探訪を試みました。私らしいとか何が好きだとかそういうことは考えておらず、甘くなくて大人っぽいものを孤独に追い求めた結果、トップノートはわりと好きだけど時間が経つにつれて重くてくどく感じてしまうことに気づかないままお買い上げし、香水そのものから離れるまでになりました。若さゆえの愚かさというやつです。
その後年単位で時が経ち、棚の飾りになっていた例の香水の蓋を久しぶりに自己責任において開けたらやっぱりトップノートは好きだと思ったんです。その部分の香料だけ共通し、後の展開が異なるものを探せばもっと好きなものに出会えるかもしれません。そう気づいた私が出会ったのがラボラトリオオルファティーボのヴァネラです。当初はスパイス系で……くらいの感じでいたのですが、これに関しては私の鼻はさほどスパイスを感じず、印象としては甘さを抑えてすっきりとしたバニラといったところでした。そしてそれがとてもよいと感じたのです。子ども時代を終えてしまったあとで、遠い記憶の中にある幸せなできごとを密やかに思い出すような、そういう香りだと思いました。なお購入店の紹介文にはとてもかっこいいことが書いてあります。もしかしたらおいしい系の香りがいいのかもしれないと思い少しばかり他のものも試してみたりしたのですが、おいしそうであれば何でもいいということもなさそうだとわかりました。おいしさは「今まさにここ」ではなく「遠い日の優しい記憶」くらいの距離感であってほしいのです。それは何が決め手になってそう感じるようになるのか、まだまだ分析が必要そうです。
また、香水とは違いますが現在の住まいの最寄り駅で電車を降りると風向きによってか潮の香りを感じることがあります。これもまた「受け入れられた」「許された」ような気持ちになります。私は香りに安らぎと慰めを求めているのかもしれません。心のなかの幼い部分を肯定して受け入れてくれるようなことを。大人志向とは真逆の望みです。

責任ある大人として下の世代に少しでもよい未来を築きたいというのも嘘ではないでしょう。ただ、それと同時に背伸びし続けている未熟な自分ですら肯定し受け入れてほしいという気持ちがあるように思うのです。どちらかが本当でどちらかが嘘ということではなく、どちらも望みでただ面が違うのだろうという気がしています。

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