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たまに認知行動療法にキレてしまう理由の考察

診断済みADHDとして生きて、発達障害という概念に疑問を持って生きている。それゆえリアルではオープンにできずにいる。

発達障害の診断が増えているのは、人類の多動レベルが上がったからではなく、昔だったら「おっちょこちょい」で済んでいたレベルの人が大量に診断されているからだ。

つまり社会の変化による時代の都合。なぜそれで私が、障害のレッテルを貼られなければならないのか・・・
いや、でもそれは障害への偏見なのか・・・

と、障害受容がなかなかできない。
ともすれば、「私はADHDの人間粗大ゴミだから」と言い出しす。自虐ワードの一つにしてしまう。
それこそ偏見だ。


楽になったあとで、怒りが湧いてくる

それでも、この時代になんとか合わせて生きていきたいから、時にはかろうじて息をしていたいからむさぼるように認知行動寮法とかセルフヘルプの本を読む。
主にkindleでぽちりまくる。たぶんダウナーな時期なら、月に5千円ぐらいは使っている。

「一つ上手くいかなかった出来事があったときに、これからも全て失敗すると考えていませんか?それは『認知の歪み』です」
「他人の尺度で生きていても、幸せになれない」
「何者かにならなくていい」

ぜんぶ、すばらしい。
読んでいると、「もっと楽に生きよう」と思う。

元気になる。

そうすると、無性に腹が立ってくる。

「認知の歪みを、正さなければ」
「あ、また他人と自分を比較してしまった」
「また不正解の願望を持ってしまった」

これって、結局自分を否定してるやん。

なぜ、自分を楽にしようと思った言葉で、逆に自分を責めてしまうんだろう。
こんなこと考えてるとまた「マジメだね~」って笑われるのかもしれないけど、考え出すと頭にきてしまうわけ。

セルフヘルプの目的に立ち返る


笑われるかもしれないけど、私は答えをまた自己啓発に頼る。

これは友人から進められた英国人女性によるポッドキャスト。女性のメンタルヘルスに関する情報がたくさん集まっている。

セルフコーチを教わった人が、ある出来事への自分の反応に対して「また反応を間違えた」と思うことはよくあることらしい。

そしてその対応を彼女はこう述べている(和訳・太字は筆者):

「私は対処できるはず。うまく対処できる自分を想像し、こうするべきではなかった」、こうした考えを持つべきではなかったなどと延々考えていませんか?
自分を受け入れて、自分を愛した上で「こういう風に反応することもできた」と思うことと、「すべき」で自分をがんじがらめにすることの間には、大きな違いがあります。
(中略)
コーチングの目的は、常にハッピーでいることではないのです。私が伝えることの目的は、常に前向きで自信のある考えを維持することや、絶対に居心地の悪い思いや逆境を感じないことではありません。
無意識に、そんな基準を自分に設けてしまった理由について考えてみて下さい。もしある感情について「絶対に持ってはいけない」という基準を無意識にも設けているのだとしたら、それは「人間でいてはいけない」と言っているのと同じ事です。
目的は、自分を助ける優しい反応を育てることにあるのです。あなたがこのことを受け入れることができたとき、非現実的な完璧主義へのプレッシャーは霧消するでしょう。

https://podcasts.apple.com/jp/podcast/the-maisie-hill-experience/id1545856324?i=1000656336077


いつもハッピーでいられたらいいんだけどね。


「ありのまま」と「無理をしてでも」の狭間


いまひとつの気づきは、世の中に出ている発達障害向け(に限らないかも知れない)のセルフヘルプの目的が、「精神的に楽になる」という場合と、「もっと生産性を上げる」という場合があるのではないかということ。

私自身は
「ありのままの自分で楽に生きたい」と思う一方で、
「無理をしてでも生産性を上げたい」と思っている自分がいる。

だから引き裂かれる。


自分が好きなことで、ご飯を食べて行けたらさぞかし楽なんだろうなぁ。

と夢想する。

私は書くことが好きだと思っていた。この文章のように「書かずにはいられない」ということもある。けれど、仕事で書くことは苦痛に感じることがある。書けないたびに自分につらく当たり、自分が嫌いになるぐらい。

やっぱり好きなことだけで食べていける人なんていないよね。仕事は色々な要素があって、好きじゃないことだってあるだろう。

でも私が「書けない自分を受け入れよう」とか言っていたら、それって会社員としてどうなのよ?となるよね。

そんな風に思いながら、私は10年やってきたんだよなぁ。

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