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秋吉敏子物語 ⑴

秋吉敏子の強さと明るさ ⑴

 秋吉敏子さんのことを尊敬しています。
どういった点をと聞かれたら、私は「毎日練習すること」と、「その明るさ」と答えます。
 93歳になる今も、「どこでその日ピアノの練習をするか」が一大事で、練習場所を探して必ずピアノの前に座ります。
80代までは、常宿の品川にあるホテルからJRに乗って、いそいそと練習に通っていたものでした。

 2012年10月20日、「秋吉敏子65周年記念チャリティ・コンサート」の司会を務めたことがあります。
会場は東京オペラシティ・コンサートホールで、私は秋吉さんの隣りの楽屋を使うように言われました。

 当時、秋吉さんは70代前半で、創作意欲満々。30年続けた秋吉敏子オーケストラこそ解散していましたが(2003年)、夫でもあるテナー・サックス奏者のルー・タバキンとのデュオ、娘さんであるマンデイ満ちるさんのヴォーカル/フルートとのデュオと、信頼のおける小編成で、ジャズへの献身にますます情熱を燃やしていました。
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 隣りの楽屋から、壁越しにピアノが聞こえてきます。
練習用のアップライトが置いてあるのが、見えました。
指慣らしのその音が、ところどころつっかえています。つっかえる度に、私は準備の手を止めました。 

 日本のジャズを牽引してきたピアニストであっても、年齢には逆らえません。隣りのハノンは、老婆の音がしていました。
 十分、二十分、三十分… 指ならしが続き、秋吉さんがジャズでも難曲と言われるバド・パウエル曲を弾き始めました。

曲想自体が複雑で、ビバップという1940年代半ばにジャズに起きた革命、ビバップの言語で語られた音楽です。秋吉さん「ウンポコロコ」を、スピード感をもって弾きこなしたのです。

 壁に張り付いて聴いていた私は、拍手しそうになりました。

 これが、敏子さんが練習するわけか。

 この30分の間に、隣の人は“老婆”から“秋吉敏子”に変身するのです。
 昔は、ひたすら上手くなるため。 
今は、「秋吉敏子のピアノ」になるために、彼女はどこにいても必ず練習をするのです。

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 秋吉敏子は、1929年12月12日、四人姉妹の末娘として、旧満州南部(現在の中華人民共和国・遼寧省)遼陽に生まれました。

 父親は、大会社である満州紡績に勤めており、厳しい人でした。優しく明るい母親は、ハイカラな反面しつけにはうるさく、父親が帰宅すると必ず家族全員で玄関に出迎え、手をついて、「お帰りなさい」と言うしきたりでした。

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中川ヨウです。ジャズを核とした音楽評論/研究をしています。日々拡張するJazzの動き。LiveやNew Albumについて書きながら、拡張…

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