読み進まないには訳がある。

先日注文した本が届いた。
2冊とも本文だけで500ページあり、片方は2段組である。これは本当に読みきれるのだろうか。論文を書く時の参考文献的な威圧感がある。

本については、毎日読んでいるわけではないが、1日の読書量は10~30ページ程度だ。読み進まないのはアウグスティヌスの「告白」なんていう、大変読みずらい本のせいだろう。

4世紀に書かれたらしいが、大概古い本は読みづらい。日本語の古典でも読みづらいのに、まして翻訳である。
原文のラテン語で読めといわれているわけでもないので、我慢しろという話ではあるが。

内容としては、若かりし頃マニ教にハマったアウグスティヌスが如何にしてキリスト教へ回心したか、というものである。
生まれた頃からヒッポ・レギウス(現在のアルジェリア・アンナバ近郊)の祭司(37歳)になるまでの回顧録となっている。

個人的にこの頃であれば、ゲルマン系のゴート族ヴァンダル族の侵攻、東ローマ帝国の趨勢の方が興味がある。

文章の半分が神への祈りと告解に費やされているせいで、なかかな話が進まない。聖書の引用が半端ないので、まず聖書を読んだ方が良いのだろうが、共同訳で2000ページ以上ある。片手間で読めるか!

聖書は通読するものではない、みたいな意見もあるだろう。教会に行って詩篇の説教を聞いた方が早い気もする。

まぁそんなわけで、しばらく前から読んでいるが、未だにローマでアンブロシウスに会ったあたり(上巻の半分)でモタモタしている。
アウグスティヌス本人や「告白」については解説書を読んだので、だいたい内容は分かっているのだが、早く”とって読め、とって読め”まで進めたい。

話は戻って、1000ページも読むとなると気が遠くなる。
では厚い本を読んだことがないのかといわれると、一応、京極夏彦の「魍魎の匣」は1日で読んだことがある。ちょうど1000ページくらいの文庫本である。
8時間だか10時間くらいかかった記憶がある。

しかし、コレは京極夏彦という希代のストーリーテラーが書いた本だからぶっ続けで読めたわけで、読者を飽きさせないようにかなり気を使って書かれている。

「告白」も解説によれば学術書ではなく、広く一般に読まれることを前提に書かれたそうだ。

しかし、私は動乱の古代末期で人生に悩んでいるわけでは無いので、とんと身が入らない。アンチキリストとかだったら、粗を探してやろうと躍起に読んだかもしれないが。

「告白」はアウグスティヌスの存命中から広く読まれていたそうで、”私の著作で最も読まれているのは告白だ”と同僚に話していたらしい。
昔の連中はこんな読みづらい本を喜々として読んだのか。

如何せん知見というか基礎のない分野であると、文書中の語句で一々引っかかって、中々読み進められない。
その補強のために解説書を読むのだが、私には理解力というか読解力が足りない。

それまたそれを補うためにノートでも取ろうものなら、一向に読み進まない。

幼少の頃より勉学をサボってきたツケを、今払わされている気持ちだ。
学生時代に死ぬほど本読んで勉強しろとは、オッサンの言うセリフであるが、それは間違いではなかったのだろう。

当時はただ煩い小言と見放していたが、今、本を読んでいると身に染みる。

基礎学力というか、勉強するための力みたいなものは小さなことの積み重ねなのだろう。私はそれを怠っていた。
字を書く練習も怠っていいたので、成人してから後輩に「先輩の字、スパー個癖っスね!」といわれた。

字がヘタでも頭のいい奴はいる、という反論があるが、それはそいつの持って生まれた能力が高かっただけだ。
私の様な凡人は小さく積み重ねていくしかない。

そんなわけで、今日買った本をノートに取りながら少しずつ読み進める事にする。


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