なぜ人はオッサンになると野球を見るのか?

そんなことは無いに決まっている。
オッサンが野球に夢中なのは、他に娯楽の無かった時代を生きていたからだ。

酒を飲み始めると全てがどうでもよくなって、幸福感にみまわれる。
そんな時は、極力どうでもいい音楽か動画を見ながら飲みすすめる事にしている。

映画のような長い動画は途中で飽きてしまうし、ドラマ・アニメなんかは続くので気持ちがノらない。
そこで世の中にはYouTubeという手軽なヒマつぶしサービスがあるので、最近は良く利用している。

ただYouTubeといっても、それこそ無限に動画があるので選ぶのさえ一苦労だ。一生寝ないで見ても終わらないだけの動画がある。

そこで、なぜか私が選んで見ているのは、元野球選手が投稿している動画だ。

私は根本的に球技が嫌いで、プロに知り合いはいないが競技者も嫌いな場合が多い。サッカー部員や野球部員で仲の良かった人間はいない。前職のバレー部出身の先輩は特に苦手で嫌いだったし、高校時代では野球部員とトラブルになったこともある。リトさん的な意味ではなくて。

特に野球とは相性が悪いのかもしれない。
友人に連れられ1回だけバッセンに行ったことがあるが、バットに球がかすりもしなかった。だいたい飛んできたタマ打って何が楽しいのか?

野球をしたことはないが、類似競技でソフトボールは体育の授業で強制的にやらされた。当然私のバットに球はかすりもしないし、打球にグラブを伸ばしても届きやしない。
なんか棒振ったり、球に目掛けてワーワー群がる人影を見て、なにをすればよいのか。
この世の行為が我には関係のない事象であると悟り、解脱すればよいのか。
実際、授業中の私は成仏しかかっていた。

運動部がらみでは武道系や陸上部の競技者とも懇意というわけでもなかった。スポーツマンが嫌いなのかもしれない。体育会系のノリが嫌いなのかといわれると、気合と根性は好きな言葉の部類に入るので、そういうわけでもないのかもしれない。
私自身に気合と根性は無いけれど。

だからといって文化系部活と相性が良いかといえば、あのビミョーな感じの、なんというか言葉に出来ない空気感。あれが肌に合わなかった。
学生時代は運動部や文化部にも入っていたが、時を置かずして幽霊部員となっていた。
自分勝手すぎて周りに合わせられないのだろう。

いささか脱線したが、ではプロ野球という競技が好きなのかといわれれば、そんなことはない。夕食時にはオヤジが巨人戦を見るせいで、見たくもない試合を延々見させられたものだ。深夜アニメの録画も試合延長のせいでズレてしまって悔しい思いをしたし、良い思い出はひとつもない。

ただ一つ覚えているのは、関東出身者のオヤジはなぜか広島カープが好きだった。知る限りでは中国地方と縁はないはずだが。

ともあれ、誰かがホームランを打とうが好投しようが私には全く関係のない出来事であり、生活のノイズであった。

そんな私が往年の名選手が解説する打撃理論の動画なんぞを見ている。
ヘッドの角度がどうのとか、ヘッドスピードがどうだの、腰のねじれがどうだの、興味もなければ、ましてや実践しようなどとも思わない。

たぶん、いい歳こいたオッサンが棒の振り方ひとつに汗をかきながら真っ赤になって議論しているのを眺めているのが楽しいのだろう。

今の私に熱中するものはない。死んでいないから生きているという状態である。昔はなにがしかに思いを巡らせ、他者との意見のぶつかりに興奮していた時代もあったのかもしれない。

思い出の中にある、愉快な雑談など幻想にすぎない。
良かったと思える思い出は、すべて自分本位に美化されているのだ。

オッサンと呼ばれる年齢になって、人に誇る勲章もなければ、誰かを教え諭すだけの経験もない。生活保護は最後のエースと、動けるうちはおマンマ食うために誰でもできる仕事をしている。

ここに情熱はない。
ゆるやかに閉じてく人生をおくる者に心を動かす物はない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?