意味が分からなくてもガムシャラに読書する経験は人生には必要である

前回古代末期の本を読んでいることを書いたが、古い本は読みずらいことも書いた。しかも翻訳なので、なお読みずらいと。

当然といえば当然だが、著者は1000年以上あとの1万キロ以上離れた異民族に読ませるようには書いていない。星新一は例外である。

文章を書くときは、書く必要のないことを極限にまで削る。
一々ものの名前、機能、状態、運用などを記述していては、いつまでたっても話は進まないし話の核心から離れていく。

そんなわけで、現在の私は書かれていない事象を出来うる限り調べて読まねばならない。そのために副読本解説書があるわけだが、それを読むのも時間がかかる。

しかし、実際問題、丁寧に副読本を紹介してくれる作者は少ない、小説などは全くない。自ら関係する本を調べ図書館で借りたり購入したりする。

内容が難しい本や自身の専門とは違う分野の本など、一冊読むのに数冊の解説書が必要になったりする。場合によっては、それ以前に書かれた著作やテーマになっている古典なども読まなければならない時もある。

書かれた時代と環境が違い過ぎて、読んでいて違和感しか感じない読書もある。

全く持って面倒くさい。

しかし、面倒くさいと思いつつも気が向いたときに読めば良いわけで、レポートの提出期限がない分、マッタリ進めることができるわけだ。

ただ、これはいつまでたっても進まないという弊害がある。
自己満足で読んでいるので、何かしらの成果物を求めなくとも良いのはずである。
だが、これも主観だが、全く読めていないという無力感も感じる。

大著を前に、それをシャカリキに読むという行為は経験しておくべきなのだろう。

「ヨッシャ!週末はガッチリ読むぞ」みたいな目標を立てても、当日になったらアニメを見ようかとか、映画見るかとなって頓挫することが良くある。
Twitterをボーっと眺めてる時間を考えたら、どれだけ読み進められるのか。一説には”集中するときはTwitterをアンインストールしろ”ってのも見たことがある。
〆切り迫った作家か。

今の自分には難しい内容であっても、読み進めるというパワーやスキルみたいなものが自分の中にないと中々実行できない。

この辺を鍛えるのは義務教育の読書であったり、大学のレポート作成なのだろう。レポートを書く能力ではなく、その下準備としての読書である。
ダメ学生だった私にそんな経験はない。

私の在籍していた大学は偏差値35という、およそこの世に存在するべきではない代物だった。レベルの低さで表すと、卒研はグループで行っていた。
これは一人で卒論書かせたら卒業できない奴が続出して、大学の体を維持できないからだろう。
そんな大学を土下座で卒業した私の能力は、推して知るべしだ。

卒研がまとまったのは、単に同期が優秀だったからである。
そんな大学界の掃溜めでも、優秀なヤツは一部上場の大企業に就職する。

私は世間的には工学学士という学位を持っている。しかし、その能力は無い。
あるとき「本を読む本」という本を読んでいて突き刺さった文がある。

”学士号は本来、一般書を読み、ひとりで研究できる読書能力を証明するものであるはずである。”
                                                          「本を読む本」p.37

耳が痛いどころではなく、心臓が止まるかと思った。
土下座の末席でも大卒なので「大学で学んだのは酒とタバコです!」みたいな発言をしていたのだが、この本を読んでからは自分が恥ずかし過ぎるので大学に行っていた話は聞かれない限りしないことにしている。

本格的に読書を始めたのは30歳を過ぎてからである。
20代のころエポックな出来事があって、それ以来は惰性で生きている。

死んでいないから生きているだけの人生は辛い。
少しでも自分を慰めようと、読書を始めた。この世には一生をかけても読み切れない書物がある。これを端から読んでいけば、このつまらない人生の暇つぶしなるのではないかと考えたのだ。

面倒くさいことも人生の一部なのだ。
この面倒くさい読書のために週末を使おうと思っているが、土曜は休日出勤である。
きっと日曜は休息という名の怠惰で過ごして終わるだろう。

いつもこんな感じだ。

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