国語と数学

私は中学の時から大の国語嫌いだった。評論やエッセイなど読んでもちっとも頭に入ってこないし、定期テストは授業中のメモを頼りになんとかしたけど、初見の問題に関してはほぼ勘で回答。選択肢なんて全部同じように見えるし、回答が間違っているような気がすることもあれば、解説を読んでも全く持って理解できないなんてこともしばしば。私にとって国語っていう教科はものすごく曖昧な教科だと思っていた。理系として大学に入った今はそう言った読解力を試されるような授業からは解放されている。

反対で私は数学がとても好きだった。数字、演算記号の羅列、誰が何と言おうが答えはほぼ一つに定まるし、順を踏んで考えれば公式の意味だって理解できてとても楽しかった。国語とは正反対な世界だと思っていた。

そんなある日。高校数学の塾講師がこんなことを言っていた。「本当に数学ができる人は国語もできるし、逆に本当に国語ができる人は数学もできる。国語も数学も本質は同じだ」、と。もちろんその先生は大分癖の強い先生だったけど、某工業大学出身で授業も学校では触れなったような様々な解法を教えてくれたりと数学を教える人としては十分マトモな人だった。肝心な詳細を忘れてしまったけど、確か理論的思考の仕方は数学も国語も本質的には同じだとかそういう話だった気がする。先生にそれを言われた時の衝撃は今でも覚えている。

さて。理系大学生になった今ではもう中学や高校の時のような国語(現代文)の授業は無いけれど、授業の中で資料として様々な文章が出されることが多い。そしてそれを読んだことに対しての課題も言うまでもなく多い。そのたびに今の自分の読解力の無さや陳腐な文章しか書けないことに対しての恥ずかしさをつくづく感じるようになっている。結局、理系だろうが文系だろうが読解力の大切さは変わらないのかもしれない。今更かもしれないけど、自分はそのことに気が付いた。

最近、自分は身の回りのことに何かしらの疑問を見つけるようにしている。疑問を見つけ、思考を深めていく作業。それを文章に起こしてみる作業。けど本も何にも読んでいないから毎度毎度独りよがりな文章だなぁなんて思ったりする。書きながら、そう感じる。

だから自分は本を読もうと思う。折角高校の時よりも時間がある今、国語から逃げてきた自分を恥じてる今、新しい知見を増やして、文章力も読解力も鍛えつつ、頑張ろうかな。このままだらだらと大学生活を過ごすにはあまりにももったいなさ過ぎるから。