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僕が僕らしくあるために

「君は将来何になりたいの?」「君は将来どうなりたいの?」という質問はデザイン学科生の友人や、先生、先輩、他学科の友人など色んな人に言われる言葉だと思う。僕はそれの答えを常に考えているのだが、その質問に一度だけ傷ついたことがある。今回はそれの話と僕が自分を見つけた話をします。

価値は人それぞれ、でも何を言ってもいい訳じゃない

ぼくが「将来何になりたいの?」という質問で傷ついたのは今年の春です。僕がニコニコ超会議2018のブースに言ってた時に、そこでテンションが上がって友達に話したことがありました。明日ここで映像演出するというと僕は友人に「将来どうなりたいの?」聞かれた。その時僕がはたしかUXデザインと言ってもわからないから、スマホアプリのデザインと言った。すると彼は「なんで将来したい事でもない無駄なことをするの?」と言われた。僕はその時衝撃を受けて、その時ハッピーだった気持ちが吹き飛ぶくらい落ち込んだ。人生で多分一番ショックを受けた出来事かもしれないくらいの衝撃である。僕はその答えにちゃんと答えることが出来ずにその話は終わった。

以前僕が話した「クリエイター」と「一般」の差と同じ話ではあるのだけど、僕とその人の間には明確な価値観の溝があると感じた。僕は価値観は人それぞれであるという考え方なので、その時は何も言わなかったし、話して伝わることではないし、お互いに見ているものも違うので彼には彼なりの考え方があるのだろう...と黙ってしまった。これは正直僕も悪い、質問に対して説明する責任を放棄したからです。でも説明をするとまた話がこじれるのでその時の僕は辞めた。この時は何も感じなかったのだが、今の僕はこの体験を思い出して「価値観は人それぞれ、色んな価値観があっていいと思う。でも何を言ってもいい訳ではない」と感じました。相手は価値観が合わない、考え方が違うというだけで無意識に人を傷つけることがある。そのリスクは人である限り誰しもが持つリスクだったりする。それはもちろん僕もそうだ。

改めて自分を再考する。

人は傷つきやすい、だけど傷つけやすい。この一件から僕は少し傷ついて、そしてしばらく自分も傷つけることを恐れてあんまり自分の意見を通さなくなりました。「口は災いのもと」を意識してるうちにある事を思いました。「自分の価値ってなんだろう?自分の価値観がある人はどんな人だろう?」という事で僕は自分について考えてみました。僕は結構平穏な性格で落ち着いています。ですがイエスマンで周りの空気に合わせがちです。しかし必要な時は元気に振舞って周りを盛り上げたりもします。発言はわりと勢いに任せるのでつい言ってしまったり、余裕がないと相手にわかるように言わずに伝えようとしてしまいます。...というように自分のことをひたすら分析してみました。もちろんいい部分もあれば悪い部分もあります。友人曰く「気を使うタイプだからそれで消耗して疲れることもあるよね。」と言われました。僕もうすうすそう感じています。そうするとだんだんわかってくる事ふがありました。それは短所は長所と表裏一体で、気を使いすぎて萎縮すると同時に長所も陰ってしまうということです。あんまり自分を殺して周りに合わせようとすると、自分のアイデンティティもわからなくなる。そう思った僕はとりあえず自分を出してみることにしました。すると離れていく人もいましたが、同じくらい自分といてくれる人がいる事に気づきました。

「なんで将来したい事でもないのに、無駄な事するの?」と言われた時は気づきませんでしたが、自分をちゃんと認めてくれる人もいると知った時は感動してつい涙がでました。「そうか、僕はここにいてもいいんだ」と感じて幸せな気持ちになりました。僕がこのことから時間が経って言えることは、居場所はあるものじゃなくて、自分で作るもの。自分がここにいてもいい人と作るものだった。ということです。この一件から僕は考え方が変わり、自分の居場所は自分で作るという事を意識しました。今でも僕は僕であるために、自分らしく過ごしています。

自分らしくいないと、自分の良さは伝わらない

僕が自分らしくいると、ちょっとずつ周りが良くなっていきます。というのもしばらくすると自分と相性の合わない人じゃなく、自分とちゃんと関わってくれる人に集中するようになります。「この人は自分と良い関係を作れているからこの人の力になりたい」と思うようになりました。そして僕はだんだんと人が好きになっていきます。信じられるチームのメンバーができると仕事も楽しいし、スムーズに進みます。僕が元気でいることで周りの関わってくれる人達を元気にすることができるのだと気づいて、ファシリテーターとして、またムードメーカーとしてみんなを盛り上げることを意識してするようになりました。僕がサイボウズでインターンシップを終えた頃にメンターの方から、「君の元気で誰とでも屈託無く話すことができるキャラは良い」と褒められました。その体験が自分の中にあるしがらみが溶けた瞬間でした。今まで自分の事を肯定される事が全然なかったので、嬉しかったです。この時がねじれた僕の性格でも人に良い結果を残せるのかという実感を得た瞬間です。この頃の僕自身が感じてた短所は改善するべきという考え方のままだと今の僕は多分いなかったと思います。今の僕がいるのはおそらく自身の弱さを乗り越えた僕が、自分が輝ける居場所を見つけたからなのかもしれません。長所と短所は伸ばすものでも直すものでもなく、自分を知ることで理解し、ケアしてあげるべき部分なのかもしれません。


改めて振り返るとこの一件から僕が学んだ事はとても大きいなと思いました。僕は他にもトラウマ級の失敗の出来事があります。自分の弱い部分のせいで傷ついたり、考え込んでしまったりなど、様々な失敗を抱えています。しかしその弱さを受け入れて、短所を許容してくれるような仲間と過ごしているとそんな過去のトラウマも気にならなくなって、やっと自分の足で前に進めるようになった気がします。今回の事で言いたかったのは自分の価値観に合わない人に合わせなくても良いということです。どこか合わないな...と思う人とは必ずどこかで引っかかる部分があります。合うか合わないかの判断基準は人それぞれです。僕は相手と長い事いれるか。もしくは相手の合わない部分が良い部分を超えると思うとそれなりの距離感を保ちます。(自分にも相手にも迷惑がかかるため)しかし、必ずどこかで合わない人と一緒になる場合は....しかたないです。僕は基本的に合う合わない関係なく人はある程度受け入れるようにはしています。特に仕事などで嫌な人といるから頑張らない、やる気を出さないというのは迷惑がかかるのでしないようにしています。

まとめると僕が僕らしくあるために大事なのは人の付き合いの中で相手と適度な距離感を保ち、誰であろうと絶対に傷つけないことだと考えています。しかしこの話は僕以外にも言えるかもしれません。今の時代はインターネットなども普及して、発言の機会が増えています。さらに顔を知らなくてもSNSを通して発言することができます。炎上や失礼な言葉を言って人を困らすという話も聞きます。僕は先ほど言ったように「意見は人それぞれ、だからって相手を傷つけてはいけない」ということは守らないといけないなと感じています。なんでも言えるからといってなんでも言って良い訳じゃないというのは当たり前だけどね。

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