見出し画像

昭和から平成→令和と生きて④

私は昭和から平成→令和と生きている。

 今日は太平洋戦争終戦の日。
 それは今から75年前のこと。

こういう日こそ、後世に残す悲惨な争いの事実と太平洋戦争を経験した私の祖父母の話をここに書きたいと思いました。

今回は一部を記載して残します。

この戦争を私の祖父母は体験している、祖父は徴兵され北海道から中国の戦地に向かった。

当時、祖父は北海道で学校の先生だった。先生に就任したばかりだ。
当時も学校の先生は聖職として扱われていたようで、徴兵も遅い方だったようだ。
しかし、いよいよ戦争が激戦となり、教師であった祖父にも徴兵令が出る。

つまり、祖父は教師になったばかりの20代前半で戦地へ行く。一体、どんな気持ちだったのだろうか?私がもし、同じ状況であった場合、その時どのような私情でいたのかをこういう時だからこそ考える。
当時は国の為に戦える喜びなのか、人間は分かり易い「敵」や「憎悪」があると麻痺する。麻痺していたのだろか、恐怖や悲観はあっただろう。

 私の考えた私情と当時の祖父の気持ちは違うだろう。

いつも戦時中の話をする祖父の1つ1つの言葉から当時の意思を感じた。強い意思だ。

それは、

「生きてやる、絶対に生きてやる」
「仲間の命は奪わせない、俺が生かしてやる」
この強い意思が一貫してあった。

祖父はきっと、敵を倒すとか自分が勝つとか、生殺与奪の恐怖ではなく、自分の意思で生きてやるんだ!自分の隊の仲間の命を守るんだ!
ただ、この信念で戦争の最中にいた。

そして、、、
祖父は生き残った。
中国で終戦を迎え、
捕虜にもなり、
爆弾が近くで爆発して爆音で左耳の鼓膜は破れ、
そして、生き残る。
祖父の意思は実現する。強い意思は実現した。ただ、祖父の強い意思が全て実現したわけではない。悲しい結末もあった。
20代で鼓膜を失う。たくさんの知り合いの死を受け入れる。たくさんの名前も知らない人の死と出会う。
これが戦争。文字にすると短い。
でも戦争経験者は眼光紙背に徹すべきだ。

後世の我々は戦争という過去の事実を眼光紙背に徹すべき。

 私の祖父は北海道から徴兵され当時、戦地の中国に行き、そこで祖父は隊長となる。
祖父の名は松原 要。
松原隊長の物語もどこかで少しお話ししたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?