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不穏婦人会を読んで



どうしてこんなに引力があったのか…と長いこと考えていた。

婦人と呼ばれるとき、そこにある「個」はかなり制限される。
婦人というのは役名だから。
求められるものになり存在すべきものとして生きるとき、「個」や「ほんとうのじぶん」と呼ばれるものは消されてしまう。
婦人としてだれかと接するときもそれは同じで、婦人として良しとされる振る舞いは崩せない。
けど、不穏婦人会にいるときはちがう。
良しとされることではなく、ほんとうに相手の喜ぶものを探して渡し伝え合う。それが相手を苦しめることでも渡すし、自分を苦しめるものでも受け取る。
不穏婦人会でのやりとりは、婦人たちにとって本当の自分を思い出し、生かしておく唯一の機会なのかもしれない。
このネプリを読むと、婦人たちが心の奥底にある欲望と自我の一部をさわり合っているところを垣間見てしまったようなヤバい興奮がある。
同時に背徳感とうらやましさが湧き上がってくる。
「婦人=女性」だからではなく、「婦人=自分を隠している人」であり、「ほんとうの自分の一部を暴かれること」にあこがれを抱いているから、性別かかわらず多くの人の心に刺さったのかなと思うし、わたしにとってはそうだった。

以下、一首ずつ引かせていただきます。

春光をドアtoドアで路線図に足された遠回り虹みたい

小藤舟

結句「虹みたい」がこわい。遠くから見たら美しいけど、近くで見たら実体のないもの。まぶしさから目を開けたとき、どこにでも行けるけどどこにも行けないような幻を見せられるような。その残念さがうれしい。

春風になぶられながらりろりろと悲鳴みたいに歌いましょうよ

毛糸

「春風」「りろりろ」「歌」がかわいいのに「なぶられ」「悲鳴」がはさまって読んでいて不安定な気持ちになる。でも、それが喜びだからいいんだと思う。安定のほうが本当はずっと恐ろしくゆがんでいるから。

100エーカー陽のあたりすぎるこの庭の陰はじぶんで作るのですよ

青糸りよ

今回のネプリで一番好きでした。陰を作らないと死ぬんですけど、それをゆだねられてるのがたまらないです。死んでも死ななくても自由。それが婦人たちと抑圧されたすべての人たちの一番ほしいものなのかもしれない。

10,000のピースすべてに意味があるなんて世界の呪いでしょうね

北谷雪

意味があることってとても疲れるんですよね。気を抜けない、ひとつも落とせない。落としていたら「今」はない。
あんなことに意味なんてなかったと思いたい、けど、それも世界を構成する一つであること。呪いですね。でも呪いと分かっていて送り、呪いと分かっていて受けとる。そのやりとりに少し癒されてまた生きる。

ほんとうによごれをおとすということがどういうことかわかりそうです

岩瀬百

なんとなく知っていたことを望まないタイミングで知ったとき、より解像度は高くなる気がします。わからせてくれた人のこと、できごとのことは絶対に忘れないですよね。絶対にね。

温度など知らないままに陽を受けて手招くように墓石がひかる

重田わたこ

温度が無くても石になってもいつでもあなたをひかりと思う。手招いているかどうかの答えは絶対にもうわからなくて、もう自分の中にしかないことが絶望であり希望だと思う。


以上です。
ほんとうに遅くなってすみませんでした。
以前、短歌や連作って結界かなあと思ったことがあったのですが、見事な結界、見事な世界でした。おぼれました。
次回も楽しみにしています。

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