「オタク」という呼称の大ざっぱさ①

 いつの時代も、言葉の定義や用法といった話題は人々の関心を集める。特に新語や既存の語の新しい用法がメディアを通して広く知られると、時に「若者の言葉の乱れ」等といった、よりセンセーショナルな伝え方がされ、国語教育を修めた人間たちの意見や議論をそこかしこで観察することができる。
 話題にあがる新語、新用法の傾向をよく観ていると、複雑な、ということはより詳細でより正確な定義が単純化し、変容し、果ては曲解されるという流れが多い。変容の行き着く先が、より単純明快な二項対立に陥りがちでもある。
 例を出すと、苦痛を人に与えることを喜ぶ「S(エス、サド)」、その逆に苦痛を与えられることを喜ぶ「M(エム、マゾ)」。サディズムとマゾヒズムは退廃的な文学の世界で産まれ、徐々に人口に膾炙していった。時代が下るにつれて意味合いはよりマイルドになり、親しい友人間でのキャラクター付けや、テレビのバラエティ番組などエンターテイメントの世界で娯楽として供されることになる。
 もちろん、一つの言葉に様々なニュアンスの違いが付与されていくのは言葉の面白いところで、先の例は俗語的な用法であり、「サディズム」「マゾヒズム」という言葉は精神医学の領域で使われるような専門用語的立場も持っている。思うに、そのように中立的に捉えれば良いのであって、苦言を呈するのは余計なおせっかいだ。言語学者は唯、この言葉の受容のされ方の変化を分析し、記述するのみだろう。
 しかし、言葉の捉え方の変化がある方向に行き過ぎた結果、特定の集団に属する人々や、特定の属性を持つ人々が被認識的不利益を被ることがある。
 「オタク」という言葉はその最たる例だろう。私は平成7年生まれで、オタク文化に興味を持ち始めた中高生時代に、周囲から蔑みの眼で見られることはなかった。私が鈍感なだけかもしれないが。過去には厳しい眼を向けられる時代もあったそうだ。今でもすっかり無くなったわけではないが、アニメを観ることが好きだと公言する、華のある芸能人が現れるなど、事態は好転し、徐々に市民権を獲得しつつある。
 しかし今なお、オタク文化から遠い人々の間で誤解がある場合があるし、或いはオタク文化を享受する人々が増えることで、オタク文化を享受していながらオタクに対する曲解を持つ人が現れる、という新たな現象も観察される。

 私が思うに、「オタク」という言葉の捉え方が、あまりに大ざっぱ過ぎるカテゴリーに過ぎないことが多々ある。それはどういうことか。
                       ②に続く

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