149日目 能登の復興から考えること
おはようございます。朝からすごい雨です。一日続くのかなぁ。
今回は、自分でもひどいこと言うなぁという面もありつつ、現実的にそうなんだろうという予測もあるので、思い切って書いてみます。
復旧・復興とは何をすること?
能登の地震を受け、行政やいろいろなNPO団体が動いて、復旧・復興しようとしています。
・・・復旧?復興?
調べてみました。
復旧は直すこと、復興は戻したうえで新たに興すこと、みたいなイメージがあったけど、"復"なんだから新たにというのはおかしいか。「創造的復興」という言葉が使われたりもするので、それに対して「復興」も元に戻すことと、ここではしておきます。つまり復旧と復興は同じような単語として、以下続けます。それが日本語的に正しいかどうかは置いておいて。
地震による被災地の復旧・復興なので、地震の前に戻すということですが、ドラえもんの道具でサッと綺麗に地震の前に戻ったとして、そのあとどうなるんでしょうか。
日本にたくさんある消滅する集落
これは能登に限らない話ですが、今後10年、20年以内に消滅すると言われている集落がすごくたくさんあります。
私の母の実家の集落もそうなので、よく知っています。文字通り山間の集落で、猿が親子で玄関先を横切るとか、草むらに近づくと蛇が出るから気をつけろとか、ちょっと先に進むと道路が舗装されていないとか、盆踊りとかのイベントは半世紀前からやっていないとか。そういうところ。
そこは私が小学生のころ、40年くらい前から、子供心にそのうちなくなっちゃうんだろうなと思っていました。母もその兄弟も後期高齢者になり、その集落には私の世代の人は見当たらない。さすがにそろそろと思うのだけどどうなんだろう。集落全体のお宅の様子とかは知らないのでなんとも言えませんが。
それにしてもそういうところは、日本中にたくさんあるでしょう。
たぶん、企業が減るから税収入が減るけど、その使い道である住民も減っていくから、静かにだんだん収束しているみたいなイメージではないのでしょうか。そしてその先は、残念ながら消滅すると見込まれている。
能登にもそういう地域はあるから、どうするか
能登はどうですかね。程度の差こそあれ、そういう集落もあるでしょう。
通常は、税収入は減るけど、使い道も減るから、静かに収束するけど、突然使い道が増えてしまったケースですね。税収入と収束の動きは変わらない。
そこを今、地震で崩れた家を復興するのが、正しいエネルギーの使い方なのか。日本の乏しいエネルギーを、そこに費やすのか。疑問を感じずにいられないです。
ドラえもんの道具でサッと綺麗になったとしてもその後、数十年後に誰もいないっていう集落もあるでしょう。
その費用は行政が出すのだけれど、行政への税収入は働く人がいないから入らない。
現地の人としては、そういうことは地震が起こる前から毎日考えることだったから身に染みてわかっていて、「もう放っておいてくれていいから」みたいな空気を感じることがあります。
そうなると、支援するこちら側としては一気に無力感に苛まれます。
じゃ放置して見捨てるの?というと、人道的にそれはないでしょという自分もいます。
日本の税金を大量投入して復興させた後、海外の人たちが高級リゾートの候補地として狙っているという話なんかも聞きます。
なにが正解なのか、まったくわからない。
日本全体の今後のための、自分の行動
直近の話はわからないのでちょっと話を変え、50年後くらいの日本はどうなっているんでしょうか。
今のように、どこまで行っても道が整備されていて、ガソリンスタンドもあって、電話も通じて、上下水道が普通にある状態・・・はなくなると私は思います。場所によっては放置される。長崎県の軍艦島のように。
もともと人が住んでいたところに住まなくなるということは、これまであまりなかったかもしれないけど、もともと誰も住んでいなかった山は今でもたくさんあるので、そうなるのかなと思っています。
電気も止まり、上下水道は当然なくなるから、そうなったらどうなるんだろう。
"閉村"などと言われて道が通行止めになり補修されず、なにも起こらない、というだけか。
なんか暗い話ですみません。でも能登の被災地を見ていると、そういうことも感じてしまうし、考えないといけないことだと思いました。それを、50年後に生きてるかわからない(大半はいなくなる)世代の大人が考えるんですね。
人類はそうやって、後の世代の人のために構築してきたんでしょう。改めてご先祖様たちに感謝です。そして自分も、後世の人たちのために考えたり行動しないと。
ではまた。
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