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歌舞伎と差別

市川海老蔵丈の新作歌舞伎の演出が差別表現ではないかとの指摘が相次ぎ演出が変更になった。
この件についてはTwitterなどでも賛否両論入り乱れているがその中で気になる意見があった。

歌舞伎、もう見なくていいな。あえて金払って見るものじゃ無いわ。なんで金払ってまで差別的なものを見る必要がある。
歌舞伎に道徳を求めたら野暮だわ

歌舞伎=差別容認の芸能。

こういった認識を持っている方も““一部””いる。

まぁ無視すればいいだろと思う方もいるかもしれないが、僕個人としては大好きな芸能がたった一回、それも一部の役者のやらかしで全部が全部差別的だと断定されるのも癪である。(それにそのツイートを見た歌舞伎を知らない人に歌舞伎=差別演劇だと思われると困る。)
そこで、歌舞伎の中の差別の歴史を書いてみたいと思う

が、あくまで僕は歌舞伎の専門家ではないしただの歌舞伎好きだ。過去に本で読んだりした記憶を元に書いているのであやふやな部分間違っている部分があるかもしれないということはご理解いただきたい。
また、間違いなどの指摘があればその都度コメント等々していただけるととてもたすかる。

1、歌舞伎での差別の描かれ方

ではまず、歌舞伎の中で差別はどう描かれてるのだろうか。
上にあげたツイートや周りの反応を伺ってみると

歌舞伎は差別を笑いのネタにしている

と思っているのかもしれない。

が、そんなことは決してない。
歌舞伎はむしろ差別等旧時代的考えがあることによって起こる悲劇を描いている。
歌舞伎鑑賞教室なんかで配られている入門冊子“「歌舞伎ーその美と歴史ー」河竹登志夫・著”には寺子屋という芝居を例に挙げてこのように書かれてある。

忠義という封建道徳のためには、自分の肉親さえ犠牲にしてしまうーーなんという非人間的な、ばかばかしい芝居だと思うかもしれない。いや実際、明治以降最近まで、りっぱな教養ある人たちでさえそう誤解し、だから歌舞伎なんか古い、封建思想のかたまりだと笑い、ほろびてしまえと叫んだ人が、たくさんいたのだ。
しかし、これが間違った解釈であることは、ちょっと考えればわかるはずなと思う。
歌舞伎は武士のための芝居ではなく、徳川時代の町人、市民のための芝居であることは、何度もいった通りだ。その一般市民は、封建思想を元にした徳川体制の中で、武士階級に身動きできないほど弾圧されていたことは、ご存知の通りである。その民衆が、冒険的忠義を賛美する芝居を喜ぶはずがないではないか。
「寺子屋」の主題は、忠義のすすめではなかった。忠のために子さえ犠牲にしなければならない封建社会、支配勢力への怒り、あきらめ、そうして肉親を自分の手にかけなければならないかなしみーーそれがテーマだったのだ。
それは、松王の子と知らずに小太郎を殺そうと決心した源蔵が、そうしなければならない悲しさを妻とともに涙ながらに呟くときの「せまじきものは宮づかえ・・」というひとことに、はっきりとあらわれている。

少し長いが大事なところなので長めに引用させてもらった。
つまり歌舞伎は差別を笑っていたのではなく、差別を受けることの悲しさ、憤りを演劇という媒体を使って表現していたのだ。

むろん、これだけをとって

歌舞伎は権力に従わない反権力の素晴らしい演劇だ!!

なんて叫ぶような真似はしない。

個人的には芸能は権力に従わず、かといって反権力でもない、権力と関わらずにいるべきだと思っているので。

閑話休題。

さて、歌舞伎と差別に話を戻そう。

ここで僕が言いたかったのは“歌舞伎に差別を笑うことを主題とする作品はない”ということである。

もしあったとしても現代まで続く中で上演されなくなっている。

2、歌舞伎で演じられなくなった作品

歌舞伎には差別を笑うような作品は無いのだろうか。

実は、ある。

その名を三人片輪という。
元々は狂言の作品である。

簡単にあらすじを言うと

とあるお屋敷の主人に盲(目の見えない方の蔑称)、いざり(歩けない方の蔑称)、おし(話せない方の蔑称)を装った三人の博打打ちが働くことになる。
主人が留守になった途端博打打ちは変装を解いて酒を飲み始め・・・

これは差別を笑っていると捉えられても仕方ないであろう。
五体満足な者がわざと片輪(これも現在では差別用語)の振りをする。
現在のコント番組などで上記の内容のコントをしたら間違いなく批判が殺到するであろう。

では、この演目直近で上演されたのはいつなのだろうか?
歌舞伎公演データベースというサイトで調べたところ1979年9月南座を最後に現在まで約40年上演されていない。

現在もこの演目が上演されないのは差別表現が含まれているからだと言われている。(あくまで松竹の公式発表ではなく、踊りの先生から昔に聞いた話であることはご留意いただきたい。)

このように歌舞伎の中にもあまりにも強い差別表現が含まれているとして現在は上演されなくなった作品があるということも知ってもらいたい。

全く差別について考えていないわけでは無いのだ。

3、差別が含まれている演出

現在でもかなりの高頻度で上演されている作品に「傾城反魂香」という近松門左衛門の作品がある。通称を「吃又」。“吃りの”又平の略である。
現在では吃りという言葉は差別用語になっている。

だが、この作品に差別的意図は全くない。
あらすじを読んでもらえればおそらくわかるだろう。

絵師・土佐将監の弟子の浮世又平は、生来言葉が不自由のため、妻のおとくが甲斐甲斐しく支えています。弟弟子の修理之助が師から土佐の苗字を許されたことを知り、女房のおとくは将監に対し、又平にも苗字を許してほしいと懇願しますが、画業で功績のない者には与えられないと突き放します。弟弟子に先を越され死を覚悟した又平が、この世の名残にと一心に手水鉢に自画像を描くと、奇跡が起こります。ーー歌舞伎美人より引用

つまるところ、言葉では表現できない思いを絵で表現して認めてもらう画家のお話なのだ。
ここに差別的感情が入っているとはどうしても思えない。
むしろ、差別を自らの絵の腕ではねのける強さを感じる。
将監も絵の出来で土佐の苗字を与えるか否かを判断していて、そこに「吃り」だとかそういった他の考えは入っていない極めて平等に物事を見ているのだ。

ただ、この作品が現在のように演じられるようになったのは戦後のこと。
それまでは近松の原作から逸れた付け足しの演出がいくつかあったのだ。
例えば、お土産に持ってきたドジョウが逃げてしまうのでそのドジョウを捕まえようとする場面。
この場面はあくまで又平の三枚目性を強調するためと観客の息抜きのためという目的があり、現在上演されても問題はないと思われる。(実際に見たことは無いのであくまで聞いた限りだが。)しかし、次はかなり問題である。

百姓が又平に対して吃音のことを罵って馬鹿にして笑い物にする。
そんなシーンがあったのだ。
むろん、原作には無い。
歌舞伎の入れ事(付け足し)である。

このシーンを実際に見たことがあるという渡辺保さんは「気分のいいシーンでは無い」と表現している。20年前の著書でそのように記されているのだから現在上演されることは絶対にあり得ないだろう。

ただ、ここで言いたいのは

歌舞伎も時代に合わせて演出を変化させている

ということだ。

以前の演出が時代にあまりにも極端に合っていなければ変更して上演しているのだ。

3、古典と新作

さて、ここまで読んで

結局のところ、御託を並べて今回の差別表現を擁護しているだけじゃないか

と思われる方ももしかしたらいるかもしれない。

なので、ここではっきり宣言しておく。今まで上げた例は

全て古典(ないしは古典作品に題材を取る)の例である。
古典と新作は別である。

歌舞伎は昔の芝居を受け継ぐ“古典”であると同時に今を生きる“芸能”でもあると思う。

今の時代に新作を作るなら、やはり今の価値観で作らなければならず、差別表現には気をつけなくてはいけない。
そう思う。

歌舞伎は決して差別を助長する演劇では無い。
それだけは強く断言したい

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