ブラック珈琲

 お疲れ様でーす、と小さく声をかけて、裏口から外に出る。返事はない。カチャリ、とドアが閉まって、この世界は一瞬で黒くなる。

 ふう、と息をつくと、今日もやり通した自分に乾杯をする。プルタブをしゅっという音とともに開ける。微糖の缶珈琲が、午前四時の身体に染みわたっていく。

 甘い。

 スタンドを立てたままの自転車に跨って、足をぶらぶらさせてみる。ぎりぎり届かないほどの高さに合わせたサドル。八時間立ちっぱなしの浮腫んだ足が、糖とともに溶け込んでいく気がした。

 ちゃんと、疲れている。ちゃんと、働いた証拠だ。

 このコンビニでバイトを始めて、もうじき一年が経つ。もっと長くいるベテランもいれば、俺が入ってから辞めたやつもいるし、逆に、俺が入ってから始めたやつもいる。多くの人間が、ここで働いた。学生の小遣い稼ぎに来ているやつもいれば、主婦もいる。安定しない職業の副業、と言っているやつもいた。

 共通して言えるのは、誰も俺に興味がないってことくらいだ。

 仲の良い職場である。近所に住んでいるやつばかりだし、二月に一度は自由参加の飲み会をしている。先輩も後輩も関係なく、暇な時間には最近どう?などと和気あいあいと語りあったりする。重労働な割には時給が低いのだろうが、客にも知り合いがいたりして、楽しいバイトなのだろう。

 俺以外は、きっとみんな、そう思っている。

 ここで働き始めて、もう一年も経つ。店長との事務連絡以外、俺は喋ったことがない。いつも夜勤の時間を少しずらして、午後八時から朝の四時まで勤務する俺は、シフトを組むときはすごく迷惑だろうな。でも、好きな時間で働かせてくれるバイトをようやく見つけたから、わざわざ隣町までこうして自転車に乗ってきているのだ。

 微糖の缶をゴミ箱に捨て、走り出す。

 住宅街に、車はない。家々も寝静まっていて、ぽつぽつと立つ街灯以外に、明かりもない。風は強い。だが、追い風だ。

 いい時間だ。夜でも朝でもない、この時間。午前四時。徹夜でゲームをしようという奴らもそろそろ寝落ちし始めるころだし、夢の国に出掛ける女子高生は起きだす頃だろう。でも、普段の生活リズムなら、普通は寝ている。特別な予定のある人だけが、胸を躍らせて起きているこの時間。俺、こういうの、好きなんだよなあ。

 大人なんだからさ、と声が聞こえる。

 ブラックくらい飲めなきゃねえ。

 はいはい、そんで、しっかり仕事しなきゃねえ、だろ?

 え、なんでわかったの?

 いつも同じこと言ってるぜ、お前。そんで俺は、いつも傷ついてる。

 ごめんごめん、あはは。

 笑ってんじゃねえよ、と舌打ちする。下り坂を駆け下りる。背中に痛いほどに吹き付ける風に乗って、一気に俺の町まで帰ってきた。まだ十五分も走っていない。このまま行けば、あと十分もすれば着くだろう。

 坂を下りきった先の神社を曲がって、すぐの突き当りを右。車なんて来ないけれど、一応信号が青になるのを待って渡ってから、右折して全速力で漕ぐ。六段階のギアは最大に設定し、体重を乗せて徐々に加速する。自転車のLEDライトが微かに辺りを照らすが、照らされなくたって見えている。馴染んだ土地だ。だんだん、家が減っていく。道の両脇に、南国風の木々が不自然に植えられている。水の音が聞こえてくる。目的地はもうそこだ。

 夜の海は、じわじわと黒い世界を飲み込んでゆく。嘘のような黒い波。砂浜に、どんなに鮮やかな思い出が残っていたって、構わず平等にさらっていく、波。時刻は四時二十五分。町を起こさないよう息を潜めた波音は、自転車のブレーキの音に簡単にかき消されてしまう。

 「おはよ、お疲れさん」

 呑気な寝起きの顔をして、和香奈が歩いてきた。おー、とだけ返事をして、今日の仕込みに取り掛かる。その間ずっと和香奈は纏わりついてくる。夜通し無口で働いた後だからか、和香奈とのお喋りのほうが進んでしまったり、する。

 こいつは四時起きで、すぐ近くの市場に買い出しに行ってからここに来ている。化粧もせず、服も明らかに部屋着で、でも、ぼさぼさの髪の毛からはふんわりとシャンプーの匂いがする。おかしいよなあ、こいつがここの店主だろうが。なんで俺ばっかりやらされてるんだ。

 ここはもともと、和香奈の両親がやっていた海の家で、二人が海の事故で亡くなったあと、和香奈が引き継いでいる。夏の営業の期間は、無職で暇な俺も駆り出されるというわけだ。彼女より四つ年下の俺は、五歳のときから和香奈の家に引き取られていた。

 食材も全て切り終わり、鮪をタレに漬けたり、とうもろこしを串に刺したりが終わって、巨大な冷蔵庫に仕舞うと、和香奈がにぃっと笑ってその奥から缶珈琲を二つ、取り出した。

「健ちゃんはさあ」

海に面したカウンターの椅子に並んで腰掛けて、和香奈が言う。背の高い椅子なので、足がつかずにぶらぶら揺れている。

「どうしても、ここで雇わせてはくれないの?」

顔を覗き込んでくるから気まずくて、手の中のプルタブをひゅっと開ける。

「お給料あげないと、いつまでもお手伝いで済む歳じゃないと思うんだけどなあ」

「いいってば」

本日二度目の微糖を傾けて、一気に半分くらい飲む。隣から、一足遅れてひゅっという音がした。彼女の珈琲は無糖だ。俺が成人した日に飲まされて、苦いって顔を歪ませたブラック珈琲。あれからもう三年も経つのに和香奈は、未だに俺は無糖が飲めないって信じている。

「確かに職がないから気を使わせてるかもしれないけど、お前の両親には俺だって世話になったんだ。恩返しくらいさせてくれ」

海の向こうで、うっすらと空が明るみ始めている。黒の世界の中に突如現れた、紫と、青と、黄色。幼い頃からずっと二人で見てきた、暁の空。

「…ならいいのに」

一気に飲み干して立ち上がった和香奈が海へ歩いていく。後ろで太陽が顔を出した。そのあとはぐんぐん姿を現して、あっという間に、黒い世界が奪われていく。あけぼのを通り越して、もうすぐ朝だ。途中で振り返って和香奈が、もう一度、言う。

「健ちゃんが本当の家族になったら、いいのに」

朝日の陰になって、表情が見えない。でも、声が震えていた。

「家族…」

「前みたいに一緒に住んで、お金も、ここも、二人で協力して。そうなったら、私はいいなって思うよ」

「でも俺は」

「私、働いてるし。いつでもいいよ、やりたくなったら始めなよ、仕事は」

いつの間にか太陽は完全に昇っていて、朝になっている。辺りはすっかり明るくなって、和香奈の笑顔がくっきりと見えた。

「じゃあ俺、来年までに仕事見つけてくるから」

甘い珈琲を飲み干して缶をカウンターに置くと、明るい世界に足を着ける。きょとんとした顔をした和香奈に近づいて、言った。

「そしたら、結婚してよ」

満面の笑みで頷いたのを見てから、ふぁぁ、と欠伸をして、開店前の仮眠へと向かった。

 と、その前に、店の前の自販機で、無糖の缶珈琲を二つ買って、冷蔵庫に仕舞った。

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