悪くないんだ

 「甘いの、好き?」

無邪気に笑う彼女に、僕は曖昧に微笑む。

「うん、好きだよ」

ああ、また要らないことを言った。うん、だけで良かったんだ。だってほら、彼女は少し頬を赤らめて俯く。長いストレートの黒髪がさらさらと溢れて、彼女は遠い方の手でそれを耳にかける。ちらりとこちらに目をやって、嬉しそうにはにかんでしまった。でも、これはただ答え方の問題じゃないか。僕は悪くない。悪くないぞ。彼女の聞き方が悪いんだ。彼女が赤くなった顔を背けたとき、こちらに広がった髪の毛が、すっと爽やかに香った。

 昨日の夜、坂井から電話があった。お風呂から上がって、そろそろ寝ようか、といったときだった。髪の毛もまだ濡れていて、いつものように適当にタオルで撫でているところだった。

「ちょっと原田、どういうつもりよ。金田さんとデートするって本当なの?」

挨拶もせずにすごい剣幕でまくしたてる。

「デートじゃないって。ちゃんと奈々にも言っておいたし」

「そういう問題じゃないでしょ!」

なら、どうすれば良かったんだよ。僕の沈黙に坂井はため息をついた。

「奈々から急に会いたいとか呼び出されたから、何があったのかと思ったら。どうして断らなかったの?」

「だって、何も言われてないんだぞ。ただ友だちとして会いたいって言われてたとしたら、断ったら変じゃん」

「そうじゃなかったら?」

「きっと勘違いだよ。考えすぎ」

僕は坂井を説得するふりをして、本当は自分に言い聞かせるためにゆっくりと言った。勘違いだよ。だってそう思っておかないと、本当に勘違いだったとき、恥ずかしいじゃん、僕が。

「友だちとしてでも、奈々が嫌がることをするのは違うんじゃない」

「奈々はいいよって言った」

「そんなの強がりに決まってるのに」

面倒くさいなあ、と一瞬、本当に一瞬だけ、考えた。あとから責めるくらいなら強がりなんて言わなきゃいいのに。そう言ったら、あなたのためを思って言ったのよ、なんて正義を振りかざして責めてくるんだろう。本当に僕のためを思うなら、頼むからはじめに本心を言ってくれ。…いや、やめておこう。ありがたい気遣いじゃないか。優しいんだ、奈々は。

 僕が何も言わないので、坂井は諦めたらしい。

「デート中もちゃんと、奈々を不安にさせないように連絡してあげなさいよ。あの子、自分に自信なくてすぐ自己嫌悪するんだから。聞かされるこっちの身にもなって」

「だから、デートじゃないんだってば」

プツリと切れた電話を、しばらく見つめた。こいつもお節介だよなあ。関係ないのに首突っ込んでくるなっての。奈々に悪い印象を吹き込まれたくないから、そんなこと口が避けても言えないんだけど。

 電話をしている間に髪の毛はすっかり乾いていた。これなら明日の朝寝癖がついたりもしないだろう、と少し安心する。いや、よく考えたら明日は、ただの、友だちと遊ぶだけなんだから寝癖がついていたっていいじゃないか、と思い直して、ベッドに倒れ込んだ。友だち、ねえ。

 眠る前に一応、彼女におやすみと送った。不安にさせているのが僕の行動が原因というのは間違いない。既読がつくのを見届ける前に、僕は眠ってしまった。

 「原田くん?」

目を覗き込んでくる金田さんは、睫毛がくるんと上を向いて、涙袋がキラキラしている。そんな潤んだ瞳で見つめないでくれ。不自然に目を逸らすと、深く息を吸って声を出した。

「金田さん、僕さ」

「あ、そうだ昨日の夜!いきなりおやすみってラインきてさ、びっくりして未読スルーしちゃったけど、すごく嬉しかったよ。原田くんってまめに連絡とかする方なんだね」

「えっ」

彼女がいるんだ、という言葉とともに吐き出すつもりだった息が、ひゅっと戻ってきて喉に詰まる。慌ててスマホを確認すると、奈々に送ったはずの四文字は金田さんに誤送信されていた。

「甘いもの好きなのも意外だったなあ。ギャップ萌え、しちゃった」

「ああ、まあ、うん。そっか」

 髪をかきあげた途端にふわりと広がるシトラスの香り。奈々の香水はもっとこう、甘だるい感じだ。僕の前ではいつもふんわりとした笑顔で、それでいて陰で坂井に泣きつくような、奈々のイメージにぴったりだと思う。金田さんは、さっぱりとした爽快感のある香り。ああ、僕は悪くないはずだ。

 坂井に何と言い訳しよう。そう考えて、余計に頭を抱えた。言い訳するなら奈々にだろう、僕よ。でもいったい、何を?

 「またね」

可愛らしく手を振る金田さんに愛想を返すと、僕は急いで背を向けた。こっそりと視線を感じながら、僕はまだ、奈々に連絡できずにいる。

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