赤いマスク

 電気をつけて時計を見ると、午前3時を示している。なんでこんな時間に目が覚めたんだろう。布団を頭から被り直し、目を瞑る。
 大きくあくびを一つすると、もう一度、目を開いた。頬を涙が伝う。
 …眠れない。
 変な夢を、見ていた気がする。嫌な夢だ。鬼ごっこをしていたと思う。学校の友だちがみんないた。特に仲の良い子が、鬼をしていた。鬼は皆、赤いマスクを装着する。私は倉庫の天井裏に隠れて、下にいたみんながどんどん捕まっていくのを見ていて、私だけは全然見つからなくて。
 …それで、どうしたんだっけ。
 まあいいや、早く寝よう。明日も早いし、大事な授業がある。しっかり睡眠を取っておかなくては。
 電気を消して、目を瞑る。こういうときはお得意の、羊を数える戦法を使う。羊が一匹、と数えるたびに、丸々と肥えた羊がぽーんと飛び出してきて、軽やかに歩き出す映像を浮かべるのが私流だ。五十四、六十二、八十八…。
 気がつくと私は、学校の倉庫にいた。天井裏に張り付いて、そっと下の様子を伺っている。何やら、声が聞こえてきた。
「瑠依、見つからないね」
「どこ行ったのかな」
「隠れるのは無しだってルールだから、絶対見つからないはずないよ」
「もう一回探してみよう」
走り去る足音が小さくなるに連れて、私の鼓動は大きくなっていった。そんなルールがあったの?じゃあ、どうして私はこんなところにいるの?なぜだか私は、このルールというものは絶対に守らなくてはならないもののような気がしたのだ。
 荒くなる呼吸を抑えながら、ここから出なければ、と思い立つ。そっと地上に降りようとすると、真那が倉庫の入り口で見張りをしていることに気がついた。ここは、だめだ。ならば、残る道は一つしかない。
 梁を伝って、明るい天窓に辿り着く。音を立てないように鍵を外すと、窓は簡単に開いた。体を滑らせ、外に出る。
 屋根だ。傾斜は殆どない。容易に立ち上がって、敷地内を見下ろすことができた。あ、あそこに沙耶っぽい鬼がいる。うわ、正門のところには鬼がいっぱい。これは増やし鬼だっただろうか。でなければ、こんなにたくさんいるはずがないだろう。
 誰にも見つからずに下に降りて、見つからなければならない。適当なところで鬼に捕まってしまったほうが楽だ。幸い、倉庫の裏は普段から人気が少ないし、誰も逃げてこないだろう。屋根を歩いて裏へと移動し、下を覗き込んだ。
 そこには、宮田がいた。宮田は、幼馴染の、陸上部の男の子。最近、八重歯が可愛らしいと人気があるみたいだ。手には赤いマスク。捕まってしまったばかりなのだろうか。それにしても、捕まったら誰からあれを支給されるのか。
 宮田は捕まったことがよほど悔しいのだろう、ふわふわの羊みたいな髪の毛を掻き毟って、地面に崩れた。彼は学年で一番足が速いのだ。彼ですら捕まったのだから、相当な数の鬼がいるに違いない。私がまだ捕まっていないことが嘘のようだ。早く降りたい、私も捕まってやるから、そこをどいてくれ。
 祈るように見つめていると、宮田の様子が狂い始めた。髪の毛が逆立ち、バッと上を向く。私は驚いて、後ろにそっくり返ったが、息を潜めてもう一度、気づかれないように見守ろうと身を乗り出した。
 宮田には、口がなかった。目を閉じて、上を向くその顔には、鼻の下に大きな空洞がぽっかりと存在していた。チャームポイントの八重歯もろとも、すっかりなくなっていたのだ。
 息を呑んだ。その空洞に吸い込まれるかのように見つめていた。屋根の上にへたりこんだまま、しばらくそうしていた。突然に宮田はマスクを装着して立ち上がった。何事もなかったかのように歩きはじめ、鬼としての活動を始めたらしかった。髪の毛が、彼の歩くリズムに合わせて揺れている。
 降りなきゃ、と思った。でも、降りたくない、と思った。これはたぶん夢だ。このまま降りずに朝を迎えたら、私はあんな風にならずに、この悪夢から抜け出せると感じた。
 だから、降りなかった。じっと踞って、静かに泣いた。真那も、沙耶もああなってしまったのか。
 ずっとそうしていた。気がつくと辺りは暗くなっていて、下を覗いても鬼は見当たらなかった。瞼が腫れてしまって、重たい。私はどうしたらいいのだろう。
 途方に暮れていると、どこからともなく声が聞こえてくる。
「瑠衣、早く帰ろう」
宮田の声だ。振り向いても、誰もいない。
「宮田、どこなの?」
返事はない。そもそもさっき、口を失っていた彼は、どうやって声を出しているのだろう。もう、鬼ごっこは全部終わって、家に帰れるのだろうか。
「瑠衣ー、今日一緒に帰らん?」
今度は、沙耶の声が聞こえる。
「ええーまた宮田と?私らとも一緒にいてよね」
これは真那だ。でも、沙耶も真那も、どこにも姿が見えない。
「みんな、どこにいるのよ。無事なの…?」
震える声で尋ねたとき、冷たい感触が、頭に響く。学校で知り合ったすべての人たちの声が重なって、言った。
「瑠衣のお口、ちょーうだい」
私が驚いて上を向くと、夜空にたくさんの口が浮かんでいた。
「ひっ」
「へへへ、鬼は上にいたんだよ。瑠衣、ルール破るんだもん。最後の一人になるまで、待ってたんだ」
八重歯の覗く可愛らしい口が、そう言った。
 電気をつけて時計を見ると、午前7時を示している。急いで布団を剥いで立ち上がる。汗びっしょりの下着を脱ぎ、洗濯籠へ放った。歯ブラシを手に取って、ふと、鏡を見た。
 歯ブラシを元に戻して、代わりに赤いマスクを装着した。

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