手の届く場所
朝焼けみたいな夕陽に騙されて、胸が張り裂けそうなくらいに、とろんと染まった空気を吸い込んでみる。喉の奥でつっかえた酸素が、ずきんと痛む心臓を優しく揺らした。もう限界だ、と思ったら最後、湿気を含んだ大きな吐息は白く高くのぼり、と同時に溢れ出した夕陽色の水滴が頬を伝いコンクリートへ染み出していった。
泣いたっていいだろ。なあ、いいよな。心の中で呟いても、東雲色の夕焼け空に浮かぶ陰りを帯びた大きな雲は知らんぷりで、ただ悠々と風に乗って流れていくだけだ。あとほんの数時間で訪れる夜を運んでくるかのように、漆黒の烏が視界をよぎる。力一杯の鳴き声がなんだかやけに切なくて、あいつは誰との別れを惜しんでいるんだろう、なんて思った。
下を向くと足元には灰色の染みが広がっていて、そのもっと奥には、ごみ捨て場に群がる二羽の烏たち。ダンボールを踏みつけ、ビニール袋を破いて、キャベツの芯や卵の殻をつついては、互いに小さく声を投げかけている。ああもしかしたら、さっき飛んでいった奴は、仲間はずれになったのかもな。縄張り意識の強い烏たちの間では、人間たちよりもずっと大きな争いがあるのかもしれない。
それは少し可哀想だなどと他人事のように考えている間も涙はずっと止まらなくて、乾燥してひびの入った唇が温かい水分をたっぷりと吸い込んでぴりりと痛む。前歯で強く噛むと、柔らかく広がる血の味が感じられた。
もっと、ずっと、痛かったんだろう。
殴られて、蹴られて、口の中が切れて、血を直に飲み込んで、彼女は何を思ったか。
今まさに陽は地平線の裏に沈もうとし、行き場を失った柔らかな昼間の空気が夜の風に押されて唸り始める。ついさっきまで優しく僕を包み込んでいた夕焼け色の気配が、今度は僕の背中を強く押す。まだだ。あと少し待ってくれ。
一年前の今日。彼女がいなくなったあの夜、僕はこの街に戻ってきた。彼女の母から連絡をもらって、新幹線で三時間。うまく働かない頭で、ぼんやりと彼女のことを思った。二年前に僕の家族が引っ越すまで、ずっと一緒にいた優しい幼馴染のことを。最初で最後の、愛する人。
僕が悪いんだ。彼女が辛いことを知っていながら、その側を離れたから。僕が悪いんだ。彼女の父親の暴力を止められるほど、強くなかったから。僕が悪いんだ。彼女は苦しいとき一人で抱え込んでしまうってわかっていながら、あの日、自分から電話をかけなかったから。僕が悪いんだ。
腕時計を見ると、五時四十八分を指している。強くなった風に運ばれていつの間にか涙は乾き、眼下では烏に荒らされたビニール袋がひらりと舞う。仲間に向けて優しく鳴いていた奴らはもう夕闇に消えていた。
彼女が落ちていた道路。
あれから一年間、僕は彼女との思い出に浸った。例えば、右手に見えるあの丘の頂上で僕らは何度も日が暮れるまで語り合ったし、左手にあるデパートの屋上遊園地には僕の母がよく連れて行ってくれた。メリーゴーランドで二人乗りの馬に乗って僕の腰にしがみつく彼女がどんな顔をしていたのか、今更知る術はない。
あの日もこんなに風が強かったのだろうか。それなら、きっと怖くてたまらなかっただろうな。フェンスは大きく揺れ、それを掴む指がかじかんで、血の匂いが鼻をかすめる。
彼女と育ったこの街が一息に見渡せるこのビルは、自殺者が出たせいで最後のテナントもいなくなり、今ではすっかり廃墟と成り果てた。空高くそびえ立つような高いビルの屋上なら、空に手が届くかもしれないねと彼女は優しく笑った。
五時五十九分、吹き荒ぶ風に抗いながら空を見上げる。地上から見上げるのとなんら変わらずに、高く高く広がっている冬空は、太陽の反対側から順に星が光り始めている。
手をかざして、なんだよ、届かないじゃん、と思う。手を下ろして、掴みたかったな、と思う。ここから真っ直ぐに落ちていく彼女は、一体どんな顔をしていたか。もしあのとき一緒にいて、一生懸命に彼女に差し伸べたら、僕の手は届いたのか。
もう夜がそこまで迫っていた。地平線にほとんど埋もれながら、太陽が最後の力を振り絞って真っ赤に輝いていた。彼女にはもう夜は来ない。それなら僕にだって、来なくていい。
秒針が分針と合わさったとき、僕は軽い足取りで前に大きく踏み出した。彼女の死亡時刻、六時の鐘が鳴り響く中で、僕は風に乗って、闇が太陽を覆い尽くしたのを見た。
離れていく空に手を伸ばして、もう二度と彼女の側を離れないと誓った。
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