儚くも

 洗濯物をしていると、眩しい水がこちらへはねてきます。私は着物の袖をまくると、たすきで括りました。今日も、あなたに触れる手拭いを、優しく柔らかくなるように、愛情を込めて丁寧に洗うのです。

 お天道様の光に照らされて水面がサラサラと流れてゆく途中に、小さな薄桃色の花びらが一枚、浮かんでおりました。どこから流れてきたのでしょうか、辺りを見渡せど、それらしき花は咲いていません。不思議に思ってすくい上げると、何やら懐かしい気持ちが込み上げて参ります。一体何なのでしょう、あと少しで思い出せる気がするのですが。この花びら、どこかで…。

 「小夜、お洗濯は終わりましたか?もうじき旦那様がお帰りになるわ、早く終わらせてこっちへいらっしゃい」

「はい、ただいま」

私は慌てて花びらをまた水面に浮かべ、佳代様の元へと向かいました。

 旦那様はその日ご機嫌がよろしくて、宮中であった様々なことを話してくださいました。新参者の私は佳代様の二列後ろで、そのお話に耳を傾けます。女御様とお話なさったこと、桜が咲いていたこと、皆がしていた遊びについて、それらは本当にキラキラしていて、桜の花も知らない私には新鮮なことばかりで、この時間が一番の楽しみなのです。

 ある日のこと、いつもの通り手拭いを洗っていると、私を呼ぶ声が致します。

「小夜!小夜はどこじゃ!」

聞き慣れたその声に私は驚きました。同様に驚いた佳代様がかけてきて、

「いったい何をしでかしたんだい?」

と囁かれ、そして今度は大きな声で、

「小夜はこちらにおります」

と唖然としている私の代わりにお返事を申し上げてくださいました。

 「小夜。探したぞ」

旦那様が直接に名前を呼んでくださるなんて夢にも思わなかったものですから、硬直してしまって、ただ口をぽかりとあけて、見上げるのみでした。

「口を閉じろ。美しい顔を粗末にするな」

「う、美しいなど…!とんでもごさいません」

「話がある。ついて来い」

 呼ばれた先にはなんと、女御様がいらしたのです。本当に何かしでかしたのかと怯える私に、女御様はふっと優しく笑みをこぼすと、こうおっしゃいました

「あなたが小夜ですね。ふふ、本当によく似ている」

「…?」

「実は三年前に、友人が亡くなりました。芳郎の妻なのですが」

「旦那様の…」

思わず旦那様の方へ顔を向けると、旦那様は少し眉を下げて、

「そなたによく似ているのだ」

目を細めておっしゃいます。

「熱心に話を聞いてくれる娘がいると思ったら、なんとも妙にそっくりなものだから驚いた」

「とても大切な友人だったので芳郎から話を聞いて、一目会いたいと思ったのです。ぜひ、彼女の着物を着てみてはもらえませんか」

 それは、薄桃色に若草色の襲の、控えめで美しい春色の着物でした。まるで、先日の花びらのような淡い桃。

 佳代様に着付けて頂くと、女御様はいらっしゃらず、旦那様がお一人で、縁側におられました。

「旦那様、」

「あぁ…。綺麗だ」

「もったいなきお言葉にごさいます」

「なあ、小夜、こちらへ来てはくれぬか」

縁側から見える、この薄桃色の花を付ける木は…

「ここで、わしはきっと強くなると、誓ったのだ」

「…芳郎様、覚えておいでなのですね」

懐かしくて、温かくて、胸の奥から溢れ出す、この気持ち。不思議な、感覚。何か、伝えたいことが、私…

「ねえ芳郎様、私はずっと、芳郎様のお側におりますよ」

「妙…?」

「ふふ、おかしな人。妙はもういませんよ」

「妙!聞いてくれ、わしは誓いどおり…」

「ええ、存じあげております。お側におりますと申し上げたではありませぬか」

この花に誓いを立てた、あの日。芳郎様が誓ってくださったこと。私が、誓いを立てたこと。この美しい、けれどすぐに散ってしまう、桜の、花。

「最後まで、待っていとうございました。あなたのお帰りを」

「遅くなってすまない」

「いいえ、芳郎様、良いのです」

あなたはもう、こうして帰ってきてくださいましたから。私は、それだけで十分すぎるほどに幸せ者でございます。

「芳郎様、どうかお元気で」

「妙!」

妙はもう、どこにもいないのですよ、芳郎様。ああどうか、お幸せに。

「これが私の、命の桜にございます。散りは、儚く」

 目が覚めると、旦那様と女御様がこちらを心配そうに覗かれています。

「疲れたろう、もう休みなさい」

優しく柔らかな視線。大好きな旦那様が、私を。

「妙、様は」

風が吹いて、花びらが舞い込みました。一人の女の、これもまた、儚い想いをのせて。

「儚くも、優雅に」

驚いたようにこちらを見た旦那様は、ふっと表情を崩すと、ああ、綺麗だな、と呟かれました。

 毎年、桜の季節になると思い出します。あの後旦那様は私を側室へ迎え、それはかわいがってくださいました。女御様からの祝で簪を頂いたので、花見になると私はあのとき頂いた着物を纏います。芳郎様とふたりで桜の散りを眺めては、その儚さを、切なさを噛みしめるのです。

「この命散るまで、私はあなたを、お慕い申し上げます」

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