薔薇の魔物

 海の底には魔物が住んでいる。よくあるこの言葉を信じて、俺は海に溺れることを決意した。
 だいたい、溺死なんてものは、意図して起こりうるものではない。だから、大抵の場合、自殺には扱われない。俺は、葬式の陳列で親戚たちに「人生を無駄にした男」「最後の最後まで親不孝」だなんて言われるのはまっぴらなのだ。いつも俺を憐れむように見てくる彼らなら、言いかねない。溺死は都合の良い死に方だと思った。
 あぁ俺は、海で育って海で死ぬのだな、と自嘲気味に笑って、今崖の縁に立っている。あれからずっと避けてきたこの海へ、水着に着替えて、ボードまで持って、死ぬためだけに来たのだ。三年前を思い出す。
 あいつが死んだこの海で逝けるなら本望である。あれから三年間、ずっと苦しんできた。物事が上手くいきそうなときは必ずあいつの歪みきって苦しむ顔が浮かび、そのたびにあいつを裏切っているような罪悪感でいっぱいになる。一度その気持ちに囚われたら終わりだ。何もかも上手くいかない。あいつはあのとき死んでしまったのに。俺はまだ生きているのに、呪われたように前に進むことを許されない。あいつのことが忘れられなくて、俺は生きながら死んでいた。だから今日は、きちんと死にに来たのだ。
 せめてもの、俺とあいつの生きていた証にと用意した、二輪の花。こういうとき、どんな花が良いかなんてわからなかったから、俺たちの燃え尽きた愛を蘇らせる灯火のような、真紅の薔薇にした。これで俺たちは、向こうでまた結ばれるだろうか。崖の上に情けのように立っているガードレールに指しておく。花を包んでいたビニールはどうしようか、と悩んだ末、指した花の上にそっと被せた。
 崖から下りて、海辺へ。真っ黒い魔物のような波を寄せる海に、ずぶずぶと足を沈めていく。ボードは海に流した。もうすでに膝までが海に襲われ、強い波にとられた足が前に進むのを拒んでいる。寒い。
 寒い?真夏のこの時期に、なぜ寒いというのだろう。たしかにこの海は遊泳のための場所ではないので、他に人がいない。だが、今は海水浴シーズンではなかったか。俺の全身がこんなにも、生きたいと叫んでいる。
 気にせず、足を引きずる。俺は死にに来たのだ。寒かろうが暑かろうが関係ない。死んでしまえば、どちらも感じない。
 腰上まで浸かっている。俺はもう、この海の一部だと感じた。塩辛い海水が、俺の身体中を巡っている。血と涙と海の水は同義だ。
 そろそろ、と崖を振り返る。すると、崖の上に誰か立っていた。顔までは見えないけれど、なんとなく、わかる。あいつがいる。この海で死んだあいつが、この海で死ぬ俺を見届けに来ている。俺は、もう首まで海に呑まれていた。
 そのとき、何かが俺の右腕に刺さった。棘?濃い緑の、何か棘のようなものが、海の藻屑に紛れて流れてくる。先程の薔薇のような、真紅の血が流れ出す。溢れ出した血が、海へ還っていく。波は沖からやってくるのに、棘は崖の方から真っ直ぐこちらへと、まるで俺を目指しているかのように一直線に流れてきている。はっと振り返ると、崖の上で、あいつが、薔薇を千切って落としていた。あいつはもう、棘を全て抜き終わり、茎を刻み終わり、額だって全て抜き去って、今まさに花びらを一枚ずつ千切って落とす。真っ暗な海に、真紅の薔薇。ああ、俺の血が海に溶け出していく。
 俺はようやく、死ぬ決心がついた。あいつは俺を迎えに来た。そうして、俺の最後の花びらを落として、全てを海に還した。俺は、あのとき俺がそうしたように、身体を解体されて、この唸るような黒く冷たい海へ、生温い真っ赤な血を撒き散らしながら投げ込まれたのだった。真奈、と呼ぼうとして、海水と一緒に何か冷たいビニールのようなものを飲み込んだ。真奈、許してくれ、息が、海の魔物は、真奈、お前、
 死亡してから一週間ほど経ったものとみられる遺体が、海から引き揚げられました。男性は、サーフィンをしにこの海へ来たものと思われます。遺体はばらばらに解体されていて、あちこちに棘が刺さり水分が残っていない状態で発見されました。これは、三年前この海で起きた事件と全く同じ状況です。また、死亡した男性は、三年前の事件で死亡した女性の恋人であったことがわかりました。このことから警察は、これら二つの事件に何らかの関係性があると見て捜査しています。ご遺族の方は、
「真奈ちゃんが亡くなってからずっと苦しんできたんだろうからねぇ、向こうで結ばれるといいんだけど」

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