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嘘笑いの日常

 「お母さん、あのね。…明日、学校に行きたくないな」

「あら、そう?うーん、じゃあ、お買い物にでも行こうか。明日だけだからね」

「うん!」

 学校へ通って、友だちに会って、勉強して、部活をして、ときどき行事なんかもあって、充実した毎日だと思う。でも、学校では笑顔でいなくちゃいけないし、頑張らなくちゃいけないし、興味のない分野だって一生懸命学ばなくちゃいけない。大好きで仲良しのお友だちにだって会いたくない日はあるし、頑張りたくない日だってある。体調は普通でも、心がしんどいときもある。そんなときに、理由も聞かずに休ませてくれるお母さんが好きだ。

「どこに行こうか」

「ええと、お洋服が欲しい!それに、甘いものが食べたいな」

「もう、わがままだなあ。しょうがない、明日は特別ね」

「やったあ」

 私は心が軽くなって、明日までにやらなくちゃいけなかった宿題を放り出してお風呂に入る。明日は何を食べようかなあ、と考えながら、いつもなら考えられない、日付の変わらないうちにベッドに入るのだ。うきうきして、幸せで、でも日頃の疲れが溜まっているから、早い時間なのにすぐに眠りにつく。明日は一日、携帯の電源も入れずに、私とお母さんだけの素敵な時間。明日の夜からまた頑張るから。ありがとう、お母さん。大好き。


 つーっと涙が伝って、ゆっくりと瞼を開く。頭ががんがん痛くて、耳鳴りがする。時計を見ると、朝の十時だった。

「優香、何やってるの!もう十時よ!学校どうするのよ!」

お母さんが叫んでいる。あれ、今日、は。

「お母さん」

「早く支度しなさい、学校には電話しておくから」

「お母さん、今日は学校、行きたくない」

「は?学生の分際で、何甘いこと言ってるのよ。いい加減にしないと高校やめさせるわよ。誰が学費払ってやってると思ってるの」

 そうか。夢だったんだ、とわかった。幸せな夢だった。でもこれが現実で、本当の私のお母さんだった。

 静かに涙を流していると、勢いよく部屋のドアが開け放たれた。強く床を踏み鳴らして、お母さんが入ってくる。私の眠るベッドの前で止まると、ぱぁん、と音が響く。

「早く準備をしろって言ってるでしょう!」

頬が痛いな、と思って、叩かれたんだ、と気づく。ぱぁん、もう一度響く。両頬を抑えて震えていると、髪の毛を上に引っ張られる。

「ぼーっとしてんじゃないわよ、次行きたくないなんて言ったら、高校やめて働かせるからね」

凄みをきかせているお母さんの目をじぃっと見つめながら、お母さんはどこでこの力を身につけたんだろう、と思った。私はお母さんにたくさん殴られてきたけれど、人を殴ることなんて習ったことがないから、殴り返せない。やめて、と泣き叫ぶか、じぃっと見つめて離してもらうのを待つしかない。学校では、人を殴るやり方は教わらなかった。

 仕方がないので急いで顔を洗う。腫れた目が痛々しいので、目を冷やす。髪の毛を梳かす。制服を着る。今日は行きたくないのに。今日は誰にも会いたくないし、勉強もしたくない。学校では、暗い顔なんてしたら誰かに心配される。誰も放っておいてくれないから、笑顔でいなくちゃいけない。今日は学校に行きたくない。

 朝ご飯の代わりに野菜ジュースをごくごく飲んで、鞄に荷物を詰める。今日提出する宿題は、昨日泣きながらやったから何もわからなかった。でも、仕方がない。出さなくちゃいけないんだもの、例え適当でもね。

「行ってきます」

 私が玄関を出るまでずっとすごい形相で見張っていたお母さんが、ぶっきらぼうに、

「行ってらっしゃい」

と言った。



 「優香おはよう。何その目、すごい腫れてるけど」

「おはよう亜希。あはは、何でもないよ。起きたら腫れてたの」

 我ながら上手に笑えていると思う。眉間と鼻筋はくしゃっとして、口は縦に開いて、目は開いておくと笑ってないってばれるから、頬の筋肉をあげて閉じておく。鏡の前で何度も練習した嘘笑い。

「ねえ、宿題やった?」

「やーそれが、もう全然わかんなかったよ」

「それなあ」

 そういえば、亜希が言ってたんだったな。どうしても学校に行きたくない日に、お母さんと一緒にさぼっちゃったって。素敵なお母さんだなって思って、素敵なお母さんに育てられたから、亜希はこんなにいい子なのかなって思って。それから、私のお母さんはそんなことしてくれないなって比べて、そのお母さんから生まれた私は、人のお母さんと自分のお母さんを比べるような、嫌な娘だなあって、思ったんだ。

「優香、どしたの」

「何が?」

「泣きそうじゃん」

「え?目が腫れてるからそう見えるんでしょ。ちょっと保冷剤、もらってくるね」

保健室に行くふりをして、教室を飛び出る。廊下にも人がたくさんいて、すれ違った担任の先生に、そろそろ授業始まるぞーなんて声をかけられる。私は返事もせずに走り過ぎる。暑くもないのに水が飛ぶ。違う、走ったから、汗が出ちゃったんだ。


 外のベンチに辿り着いて座る。チャイムが鳴る。学校では一人になれる場所なんてないけど、授業の時間ならきっとほとんど人は通らない。目から溢れ出す温かい液体も、汗だなんて言わなくていい。でも、用務員さんが通ったらどうしよう。外で一人で泣いている生徒がいるって先生に連絡が行くかもしれない。ああ、面倒くさいな。だから今日は、学校に来たくなかったのに。

 私はお母さんと二人でお出かけなんてしたことない。お母さんと仲良くお話したことだってない。でも私は、もし学校で人の殴り方なんて授業があっても、お母さんを殴れなかったと思う。

 学生なんだから。勉強は当たり前、学費を払ってもらっていることに感謝しなくちゃいけない。正しい。正しいけど。

 お母さんにだけは、わかりきった正論より、甘やかしてほしい日だって、たまにはあるだなんて、私のわがままだろうか。


 ああ、せっかく昨日何とか書き終わったレポートなのに、出し損ねたなあ。鞄はあるから、親に連絡をされたりはしないだろうけれど。教室に、戻りたくないなあ。

 冷たい風に当たって、一人涙を落としていると、朝お母さんに叩かれた頬がまだ痛む気がした。

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