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空の夢

 空を見上げたつもりが、そこには錆びれたコンクリートが広がっていた。真っ直ぐ上を向いてみたけれど、青い空は見えない。だが、そこにいた彼は、この状況を特に気にもかけず、今日は暗いなあ、と呟いた。僕は、早くここから出て、空を見たいと願った。

 いつものように家を飛び出して学校に来たはずの僕は、いつの間にかそこにいた。どうやってたどり着いたのか、何も覚えていない。ここはどこだろう。鉄筋コンクリートの高い壁がそびえ立つ、だだっ広い空間。がらんとしたここには、家具と呼べるものは何もない。僕と彼以外にはっきりと存在しているものはただ一つ、僕の背では到底届かないところにある、小さな小さな、鉄格子の窓。一筋の、薄暗く弱々しい光が差し込んでいる。出口はどこにあるのか。

 彼は、僕よりずっと前からここにいるようだ。彼が何も喋らないので、僕も何も言わない。沈黙が続く。

 暇なので、しゃがんでみたり、壁に手を伸ばしてみたりする。不思議なことに、目の前の壁に触れられず、コンクリートの冷たさを感じることができない。手のひらに伝わるのは、滲む汗と淀んだ虚無だった。

 どのくらい経っただろうか。彼は時々、何やら独り言をこぼしていた。僕はふと、あの窓に触れたい、と思った。薄暗いこの空間の唯一の光。その外には、果てのない空が広がっているだろう。あの光に届いたら、ここから抜け出せる。なぜだかそう、確信した。

 しかし、うまくはいかなかった。壁にも触れられないのに、どうして窓に触れることができるだろう。いくら手を伸ばしても、光は僕を嘲るかのように遠いまま。弱々しく、けれど絶えることなく波を送っている。それはまるで、薄雲に隠れた月明かりのようだった。

 彼が動いた、ように見えた。最初に見たときから彼の姿はぼんやりとしていて、まだ顔も知らない。会話をしていないので、なぜここにいるのか、彼が誰なのかも知らない。彼に話しかけてみようか。

「ねえ、ここはどこ?君は?」

のそり、のそりと動いていた彼は、壁にぶつかったかのように動きを止めた。おそるおそるといった様子でこちらを振り返る。

「僕、早くここから出て、空が見たいんだ」

彼は、何やら呟いている。彼が顔を上げるに連れてだんだん大きくなるその声は、こう告げた。

「そら?そらって何?」

目を見張った。彼の顔が、輪郭が、この薄闇へと溶け出すかのようにぼやけて、ぐにゃりと歪む。暗闇が溢れ出し、そして消えた。影が、近づいてくる。

「ねえ君、夢って見たことある?」

ああ、そうか、と思った。これは夢だ。こんなことが起こりうるわけがない、そう、これは夢なんだ。彼は、僕の脳が創り出した気味の悪い幻想にすぎない。視界のすべてが、歪み、溶けていく。

「もしかして、目が見える夢、見てるの?」

どういうこと?と声に出そうとして、声が出ないことに気がついた。彼は、もう人のような姿を留めておらず、ただの影と化していた。そりゃあそうだ、夢なんだもの、この夢ではきっと、声なんて出ないし目だって見えないのだ。

「もう、僕らには何も、見えないのにね。かわいそうに」

この声はどこから聞こえる?視界いっぱいに広がった影が、空へ続く一筋の光を呑む。見えない、見えない、あれ、これは、夢で_。

 辺りが明るくなる気配がして、鼓膜が静かにざわめく。ゆっくりと目を開けて、周りを見渡す。僕は横になっているようだった。僕の周りには、黒っぽくて、でも心なしか明るい、何もない空間が広がっていた。あそこには一筋しかなかった光が、今はそこかしこに膨らんでいる。

「起きたわ!」

お母さんの声だ。駆け寄ってくる足音が聞こえる。なのに、あれ、僕の空っぽの世界には、お母さんがいない。

「おかあ、さん?」

と呼ぶと、灰色の光の中にぬっと黒い影が現れ、僕の身体を揺さぶった。

「けんすけ、わかる?見えるのね?」

お母さんの泣き声が、影の中から聞こえる。だけど、僕のお母さんはどこにもいない。よく目を凝らして見るけれど、僕の視線は深い影に突き刺さり、沈んでいくだけだ。

「お母さん、どこ?」

 影に、手を、伸ばす。泣き声が、大きくなった。お母さん、泣かないで。僕に、顔を見せて。僕は気づく。また、夢か。だって、伸ばしているはずの手すら、僕の視界には映らない。もう僕に見えるのはただ、黒い闇と、ぼんやりとした光と、優しい虚無だけである。大きな影に揺さぶられながら、僕は思う。ああ、夢から覚めたら、透き通るような光の集まった、青い空が見たい。

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