花歌

 大きく息を吸い込んで、マイクを構える。目を閉じる一瞬前、まだ何も言ってないのに僕の目を真っ直ぐに見て涙を落とした女の子が見えた。瞼の裏で、明るい紫のステージライトを反射してキラリと光った涙の粒を反芻する。

 何かを、伝えたかった気がする。


 「息を吸う音まで、綺麗だよね」

小さな部屋を、防音のパネルで囲って更に狭くして、僕らは二人、いつも寄り添って座っていた。僕の手にはギター、君の手には花。

「あたしの特等席ね」

なんて笑うから、膝と膝が触れ合うほど近くに座っていても、邪魔とは思わなかった。そこから伝わる熱と、内側から溢れる感情を声に乗せるだけだった。


 歌い出しはドルチェ。歌うように、甘く、優しく柔らかく。大切な「あなた」との思い出を、振り返るように、そっと。


 僕の家に来る途中に君がふらりと買ってくる花で、僕は曲をつくった。ダリア、ガーベラ、フリージア。その都度花言葉を調べたけれど、どんな花だって歌うのは君への愛で、直接は伝えられない気持ちをがむしゃらに綴った。

 言葉もメロディも、どんどん思い浮かんだ。陳腐な歌詞だったと思う。世界で一番愛してる、生まれ変わってもきっと見つける、君だけがどうしても好きだ、君を想うと胸が張り裂けそうなんだ。ありきたりな音運びに誰でも言える愛を乗せて、僕は歌った。たった一人、君だけのために。


 Bメロは音程の動きが激しいから慎重に。低音から高音に飛ぶところも滑らかに繋がるよう意識して、だんだんとクレッシェンド、そしてやりすぎないよう冷静にアッチェレランド。


 僕が買った安い防音パネルでは全く効果はなくて、アパートの隣に住むおじさんが会いに来た。てっきり苦情かと思っていたけれど、それはスカウトだった。僕は二つ返事で頷いた。そんな簡単にうまくいくはずはないけれど、もし仮にうまくいって稼いだら、君に結婚を申し込もうと思っていた。君に一番に報告すると、本当に嬉しそうな顔で言った。

「悠里の声、本当に綺麗だから、きっとうまくいくよ。応援する」


 1サビ、「あなた」への想い、アジタート。まだ好きだよ、会いたい、もう一度抱きしめさせて。たくさんの人が共感し、聴いてくれるありきたりなラブソング。爆発する感情は、僕にはもうないのに。

 力尽きて間奏、半分だけ開いた目でさっきの女の子を見ると、もう目も開けていられないくらい、涙でぐしょぐしょだった。音もなく泣いている。耳だけは僕に向いているのが伝わる。

 2番、Aメロから。もう一度、を願う「ぼく」だが、「あなた」のつれない態度に2サビでは諦めの感情が滲んでいく。


 君の言葉は本当だった。僕の歌は運の良いことにすぐにヒットして、話題を呼んだ。僕はどんどん詞をかいた。近所の花屋には、もう曲になっていない花はないくらいだった。デビュー後に作った曲の花は、君が選んだのではない花がほとんどだった。僕は忙しくなって、君はだんだん僕の狭いアパートには来なくなっていった。


 Cメロ。エスプレッシヴォ、言葉ごとにスラーをつけて。落ち込んでいる場合じゃない、「あなた」に届けたいだけなんだ。返答なんていらない、都合のいいように扱ってもいいから、「あなた」をただ想わせて。譜面どおりの僕の歌は、クライマックスを迎えようとしている。


 ある日、夜遅くに家に帰ると、花束が置かれていた。ブーゲンビリアの三色の花束。添えられたメッセージカードには、「ありがとう」。僕はブーゲンビリアの花言葉を検索する間もなく寝た。ポストには合鍵が返却されていた。君はそれから一度もこなくなった。でも、連絡はとれなかった。ブーゲンビリアは綺麗に包装されたまま枯れ果てていった。

 本当は、検索せずとも知っていた。君が初めて買ってきた花だから。情熱、あなただけを見ている。僕のどこにでもありそうな歌詞たちは全部こいつに支えられている。でもあのとき、二人寄り添い合って調べた花言葉は、それだけじゃなかった。

「知らずに買ってきちゃったけど、薄情って意味もあるのね」

「本当だ」

「へええ。でも、ここがあたしの特等席な限りは、悠里のこと薄情なんて思わないよ。これからたくさん喧嘩しても、すれ違っても、悠里の歌、一番近くで聴かせてね」


 大サビの直前、特等席、なんて言葉を思い出したせいで、息が詰まる。震えるマイクを握り直して、もう一度、深く息を吸う。

 最後はパッショナートだ。でも、だからじゃない。譜面ばかり気にして、忘れていた。

 伝えたかったんだ、君に。痛いくらい真っ直ぐに、恥ずかしいくらいの愛の台詞。

 目を見開いて、ありったけの声を出す。気持ちが入りすぎて、何度も音を外した。ただ想うだけなんて、やっぱり少し寂しくて、辛い。でも悪いのは僕だから、僕にはもうこうして君へ向けて歌うことしかできない。君だけが好きで、歌は愛を伝える手段でしかなかったのに。薄情だと思ったろうか。いつでも戻ってきて、君の特等席は、君のために空けてあるよ。


 花のアイデアが浮かばず不調の最近の僕は、昔作った曲をアレンジして出していた。この曲の名前はブーゲンビリア。ほんの小さい花の色は薄くて、薄情という花言葉がついている。でも、鮮やかで綺麗な葉っぱは、まさに情熱そのものである。


 曲の終わり、ピアニシモで言った「待っているから」が辛くて、ぽろりと涙を落とす。滲んだ視界の中で、さっきの女の子が全力で手を打ち鳴らしていた。僕はふわりと笑ってお辞儀をすると、ステージを下りる。僕が歌を届ける相手はもう一人じゃない。たくさんの人が僕の歌に共感して、泣いたり、口ずさんだりしてくれる。でも、想いを伝えたい相手は一人きりだ。この先も、ずっと。

 君に届くまで。僕の歌が君の心を動かすまで、歌い続けると誓った。

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