しお加減
「今日はお赤飯だぞう」
ってその人は明るく笑って言った。
「なんのお祝いですか?」
僕が首を傾げると、いたずらっぽく目配せして、
「私の慰労会だよ」
と言った。
慰労会。成果や業績、または苦労などを労う会のこと。わざわざググらなくたってそんなことは知っていたけど、僕はトイレの中で口を尖らせながら調べた。何で慰労会?何かあったのか?
まあ何でもいいじゃないか。お赤飯は好きだ。ほくほくして、あったかくて、もちもちして、甘くて、だからほんのり塩気を足すためにごま塩を振って食べる。その少しの塩味が逆に甘みを引き立てて、優しい味になる。おっと、僕に食レポなんてさせたらいけないよ。彼女のつくるお赤飯の美味しさを、うまく伝える自信はないや。
「いただきます」
手を合わせてから彼女をちらりと盗み見る。ゆっくり手を合わせて、軽く目を閉じて、祈るようにいただきますを言った。箸を手に取ると、普段は野菜から食べるのに、今日は真っ先に赤飯をかき込んだ。
「んまっ!」
美味しそうに食べながらプレミアムモルツの蓋をシュッと開ける。初めて見た。お酒を飲むところ。
「何見てんのさ。言っとくけど飲ませないよ?冷めないうちに食べな」
勢いよく飲み込んで頬をほんのり赤めている彼女は、なんだかとっても色っぽくて綺麗だった。
綺麗な人だった。その人は、大人の女性だった。
僕も、一口。もち米と、お豆のほろほろした食感に酔いしれて、僕も思わず叫んだ。
「んまっ!!」
いつも美味しいご飯を作ってくれてるんだよなあ。文句も言わずに働いて、家事も全部こなして、僕を養ってくれている。辛いことも、大変なこともきっとあるだろう。でも家では笑顔で僕に接してくれる。いつか僕が大人になったら、そのときは僕が、彼女を労ってあげたい。今は迷惑をかけるばかりで、とてもそんなことを言えるような立場じゃないけれど。
「今度、教えてくださいよ。作り方」
彼女は潤んだ目で僕を見上げると、ごま塩を追加しながら確かに言った。
「まあ、そのうちねえ」
「時間のある時でいいですから」
「時間かあ」
彼女の足が机の下で真っ直ぐ伸びてきて、向かい合って座る僕にぶつかる。熱くなった指先で足の甲をちょんとつつかれてどきりとした。
「あるかなあ」
机の下の攻撃は止まらない。へへへ、なんて笑って、だいぶ酔っ払っているみたいだ。なるほどお酒には弱いのか。だから見たことがなかったんだ。なら、どうして今日は?
「でもさあ、教える必要もないんじゃない」
「え?」
「ヒロくんもう学校で十分習ってるでしょう」
調理師免許のために通っている僕の短大では当然ながら赤飯だって習ったことがある。だけど違うんだよ。彼女の料理が好きだからここにいるのに。
「あたしの料理なんてねえ、大したことないのよ?」
「なんでそんなこと言うんですか!」
カッとなって立ち上がった。熱い指がすっと引っ込む。
「南波さんの料理が好きで、僕は」
「箸、置いてよ。せめて」
冷たい声で彼女が言った。我に返って僕は席に座った。黙々と僕たちは赤飯を食べる。彼女のような料理人になりたくて、心が落ち着くような、温かい涙の出るような、ほっとするご飯が作りたくてこの道を選んでいるというのに。
「ヒロくんもさ、私に気遣って進路決める必要ないからね。好きなものになんなさいよ」
その好きなものがあなたなのだと、伝えることはできない。黙々と食べる。少ししょっぱい、優しい味。あなたの作る味。きっと、僕だけの味。
「ごちそうさまでした」
手を合わせると彼女はへらっと笑った。
「私の料理が好きって言ってくれるの、ヒロくんだけだなあ。最高の慰労会だったよ、ありがとう」
そうだ、これは彼女の慰労会。日頃の感謝を込めて僕もゆっくり手を合わせた。何か辛いことがあったに違いない。今は力になれなくても、きっといつかは。
「今日の味、忘れないでね」
自室に戻る前、彼女は寂しそうに言った。足取りがおぼつかなくて、大丈夫ですかと聞いたのに、頑なに首を振ってからそう言った。それが彼女の最期の言葉だった。
南波紗也、享年二十九。あの日の夜に睡眠薬を大量に飲んで自殺したその人は、僕の初恋の人だった。
あれから八年経った。彼女と同い年になった僕は今もあの日の赤飯の味を再現するために試行錯誤している。なんて格好つけてみたけれど、職業はただのサラリーマンだ。若くして店を切り盛りしていた彼女がどれだけ苦労をしていたか。大人になった今なら少しだけわかるよ。本当に少しだけ。
彼女は結局僕に何の料理も教えてくれなかった。僕が彼女から学んだことといえば、追い詰められる前にちょくちょく慰労会をすること、くらいかな。
おつかれさまでした。今日のは今までで一番出来がいいと思うのですが、どうでしょう。んまっ!と聞こえてきそうなくらい彼女が朗らかに笑う仏壇に赤飯を山盛りにして、ゆっくりと手を合わせた。
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