指を折るなど

 彼の家の天井は、まっしろ。壁も、床も、まっしろ。床は白い板張りになっていて、壁と天井は、近くで見ると、なんかよくある横線と縦線が階段みたいに並んでいる模様をしている。でもこうやって寝転んでいると天井は遠すぎて、一面白一色の無地に見える。LEDに替えたばかりのまぁるい電気は、ずっと見ていると目に焼き付いて、白いキャンバスに緑と紫で暗い円を描く。

 どうしてまっしろな家にしたの、と聞いたら、彼は汚れが目立つからと言っていた。目立ったら良くないんじゃないの、と言うと、すぐ取り除くからいいんだよ、と遠い目をした。

 潔癖なのかと思ったけれど、そういうわけじゃないみたいだ。汚い、と思うわけじゃなくて、目に見える汚れが嫌いな風だった。

 だから彼の頬には安心して触れる。こうしてセミダブルのベッドに二人で横になっても彼は嫌がらないし、息のかかる距離で寝顔を見つめているときに彼が起きてしまっても怒られることはない。

 男の人って、寝転んでもあまり顔が変わらないんだな、と思う。つんつんした短い髪の毛が乱れることもないし、脂肪の少ない頬は上を向いても横を向いても、重力に負けずにいつもの形を保っている。つん、とつつくと、私の伸びた爪が彼の頬に食い込んだ。

 んん、と彼が寝返りを打つ。まだ寝ているのか、と飽きれていると、器用に向こう向きに体勢を整えつつ頬を刺激する私の指を掴んだ。

 強く、掴んだ。それはそれは痛かった。

 思わず手を振り払って起き上がる。二人一緒に入っていた掛け布団も起き上がると同時に半分に折った。彼は驚いたように呻いて、眉をしかめてうっすらと目を開けてこちらを見ている。

 彼の家の床は、まっしろ。髪の毛の一本すら落ちていない、ピカピカの床だ。

 「電気、付けたまま寝てたね」

「うん」

まだ頭が回っていないような彼は、私の着ているぶかぶかのトレーナーの肘を小さく引っ張る。サイズは合わないけれど、彼の服に私がすっぽりと包まれているのを見るといつも彼は満足げに微笑んでくれる。

「なんで今、手、払ったの?」

寝起きの機嫌が悪そうな声で囁く。私は目を逸らして、彼の奥の床を見ている。ラグを置いたら?と提案しても、彼は買わなかった。まっしろな板張りの床。

「ねえ、聞いてる?」

今度は強い声だ。もぞもぞと起き上がって、ベッドが軋む。私は焦点を合わせないまま、彼を見ている。

「どうしたの」

私の後ろにぴったりくっついて座った彼が、腰に両腕を回す。その手で私の指を掴む。私は顔を反らす。彼は一本一本、愛おしそうになぞる。綺麗に整えた爪の先まで、丁寧に、ねっとりと触れる。

「さっきは、痛かったから。ごめんね」

「そっか。こっちこそ、ごめん」

肩に重みを感じて顔を傾けると、頬と頬が重なる。乾いた薄い頬。寂しそうな頬。

「好きだよ」

耳元で彼が囁く。うん、と答える。彼の指は私の指に絡まって、もう離れないと主張している。

 頬を離して、体をねじる。おでこをこつんとぶつけて、それから目を合わせて、私も小さく言う。

「私も、好きだよ」

ぎゅっと握り返すと、彼の指の震えが直に伝わってくる。私の想いは彼の心に届かない。どうしたら信じてもらえるんだろう。指の先まで全身で、愛してるのに。

 軽くキスをして、手を繋いだまま、二人してもう一度寝転んだ。まっしろな天井が私たちを見下ろしている。人の心は汚れが見えにくい。私がまっしろなことを証明するやり方を、私は知らない。

 彼は目を瞑って、私の指を折りまげていく。過去のことはわからない。誰に、何をされたの?わからない。どうしてあなたは、人に心を委ねることができなくなってしまったの?過去のことは何も知らない。そこにはただ、二人の未来があるだけなのに。

 「折ってもいいよ」

涙の滲んだ瞳で、訴える。今の、私を、見て欲しい。そのためなら、たった十本の指くらい、安い代償だと思った。

 彼は指を折るのをやめて、そっと口づけした。

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