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2022 2.18 - 2.19

詩人のポールヴァレリーは、主題がなんであれ公にむけて文章を書くことは読者を意識して振る舞うことと不可避であり、通常、公に向けて書く者はそれを隠蔽したがると書いている。自分自身に向けて書くことはつまり、誰にも見せない前提で文章を綴るという行為を通じてのみ達成されるということだろう。だから私が今キーボードで打ち込んでいる文章は、あなたがいつかどこかで読んでいることを想定して書かれている。こんなことを明記するのは私が誠実だからだろうか、それとも卑怯だからだろうか。


昨年の3月、モロッコを旅している道中Walidと会ったのはトゥルエットという小さな町で、私は人口60人ほどのベルベル人の村に数日間滞在するため、マラケシュから乗合バスで移動してきて、カフェでその村からの迎えの使者を待っていた。手書きでMITSUBISHIと書かれたトラックの停まる道路でサッカーをしていたのが彼で、数分話してインスタグラムを交換して別れた。私たちが共有したのは本当にその時間だけだ。彼からたまに写真が送られてくる。それは彼が住むアトラス山脈の四季で、今は村が雪に覆われているらしい。そういえば私が旅をしたときも雪が降っていた。モロッコと聞いて想像されるのは砂漠や強い日差しや乾きだろうが、あの国には緑があり雪が降り小川の流れる村がある。私はそのことを忘れずにいたいと思う。


家から中目黒駅へ向かって歩いて行くと、大きなタワーマンションの下にある小さな交番を横切ることになる。掲示板には「この人を探しています」という文言と一緒に蒸発した人の写真が貼ってあった。イギリスにいたときは、たまに友達がシェアした誰か知らない人の投稿で、失踪した人を探している、何か知っている人は連絡してきて欲しいという、ほとんど祈りに近い協力要請を目にすることがあった。
日本に帰ってきてからはそんな投稿もあまり目にしなくなったが、世界中どこでも、多かれ少なかれ人は突然消えるよな、と当たり前のことをその掲示板を見て思った。だから身近な人に親切にしようとか、毎日を大切に生きようとか、そんな話ではなく。そういえば昨日見たヴィムヴェンダースの『パリ・テキサス』も失踪した男と女と残された息子と、その周縁の話だった。あれはとても、とても美しい映画だった。

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