随筆|横目で過ぎ去ることの慣れ
何かを吐くためには、吐くものが必要である、食べ物にしろ、鬱憤にしろ、情報にしろ、何かが自分の内部に「ある」事が前提である、案外、その内部の色々を、様々な形で吐くことで、気持ちはスッキリするもので、そのタイミングを素直な形で吐ける人は、自分の気持ちに従順なのだと、僕は関心する、吐きたいときに吐けばいいよなどと、女の子に優しさを与える文句も言えるから、辛いときに、甘い言葉でメロメロにしたいというのが、僕の理想だ(何を言っているのだろう)
僕も人間だ、内部に様々な感情や、感受性の中で生まれ踊っている感性がいたり、生きていく上で注ぎ込まれていく情報や、経験を通して得た価値観や知識が、外に出たがってウズウズしている瞬間がある、されど、伝える技術がない場合、そのウズウズはウズウズのまま、昇華されずに行き場を失ってしまう、吐き方とは何であろう
言葉を通して、聞き手が受容することで成り立つ会話や、文章でそれを表現する方法であったり、非言語的な表現(絵、音楽、ダンスなど)で、その在るはずの吐き出させたい何かに対して、コミットする、それが自然に出来れば、精神衛生上、気持ちがいい、ただ、それがうまく出来ずに、何処かでその経路に蓋がされて、行く手を阻まれたら、人はどうなるのか
素直なままで生きていたいのに、社会という集団に身を置くと、その吐き出す機能がうまく行かなくなる、否、吐き出す機会の減少とか、意欲の低下と言えばいいのだろうか、僕はそこに自分自身が在るような気がする、当然、我慢の中で息をしていく機会は、社会の中では必要である、その我慢が何を指すのか、これは人によって見解が変わるが、やりたくない事をやっている時が、それに該当するのではなかろうか
その我慢が溜まると、ストレス反応で身体的・精神的な諸症状が出ることは、その要因が詳しくわからなくとも、ストレスを感じた事がある人なら、感覚的にわかるはずである、頭痛、腹痛、めまい、吐き気、気分が塞ぐ、気持ちが落ち込む、判断力が低下するなど、それは心にしこりのようなものを植え付けて、ぼくらを掴んで離さない
今ある現実の中で、自分が知らない部分で、そのしこりが大きくなっていく場合もあるから、生きるのは本当に大変である、ストレス耐性がないだとか、対処方法を熟知していないからという、結果に対する因果論とは別に、その吐きたくても吐けないような現状である場合、では、その心情は読み取っては貰えないのだろうか、という気持ちになる事は、僕にもある、吐きたいのに吐けない、これは一番苦しい状態であると僕は思う
傾聴とはよく聞く言葉で、耳を傾けて人の話を親身になって受け入れるというニュアンスを感じる、どうも社会は、個人と個人のぶつかり合いのように思えて、仕事の中で、その集団の規律を犯さずに、そして自己を埋め過ぎることなく、出来れば、当たり障りなく個人を生きていたいという匂いを感じてしまうのだ、僕が求めているのは、その現状の中で、一つの道を互いに同じ方向を見て進める誰かと、愛を持って生きるという単純なものだ、この世界で、誰かが崩れ去っても、何事もなかったかのように、同じ毎日が過ぎ去ることの恐怖に、人は病むのではないか、それでいいのだろうか
話は横道に逸れたが、人のあたたかさは、人を救う、吐き出したい事があっても、それを受容してくれる、そんな環境の中で生きられたら、人はどれ程、楽になれるだろうか、そんな想いが、独りになって余計感じるようになってしまった、どんな社会が人の心を動かすのだろう、否、そんな日は来ないのかもしれない、大切なことを何処かに置き忘れたまま、社会に身を投じることの違和感、それでも世界は回ってしまう
この価値観は、社会を一般化したものではなく、僕個人がそう感じてしまったという部分に重きが置かれておるので、そう感じない人には理解されることはありませんが、少し吐きたくなったようです、本当の気持ちがどっか行きそうだったから、吐き出すことって、やはり大事だね
月明かりが、レースのカーテンに浮き出ているのかと思ったら、街灯であった、書き殴りごめんください、またね
いわゆる、駄文