自分を許すということの感じ方の相違。
数日前に読んだ記事で、自分の感じ方との相違にちょっとメモっておこうと思って。備忘録です。
私の場合は、前の記事にも書きましたが、セラピストさんお墨付きの「厳しさ」だったらしく、本人は長年それなので他者からの指摘があっても変えようとはしなかった。それは他者に対してであって、自分に厳しいとは思っていなかった。自分に「厳しい」の意味が理解できてなかった。それ、セラピストさんに都度都度同じようなこと起きるたびに、指摘してもらって、このことなのか、と分かった次第。
それは、自分が間違うこと、うまくできないことに強力ダメ出し、自分を責めること。それは反省と分析なので、日常的に必須のことと思ってました。
ところが、それがNGでした。適度でやめられない! 自分に厳しい訳ですから、そこは手を抜きませんw。だめな自分が許せない。そういうのって癖になるし、ネガティブはとても気持ちいいw
それで言われたのが、スピリチュアルあるあるですが、だめなところも、良いところもすべて自分なのだから「そのまま受け入れること」。間違ったことや、うまくできないことを選択してしまった、対応できないということを知ることも、私の人生において必要なことだから起きていること。そもそも、その選択をした時点で、それはすでに「正しい」と。
良い、悪い、正しい、間違っている、というジャッジをしているのは自分で、感情がそうさせているだけ。
だから、トラウマで残った過去の感情の痛みを都度都度流していくと、自分を責めることがなくなったのですね。過去育ってきた環境で、そういう考え方になっていた(自己肯定できなかった)だけなので、内なる自分は、私のことをまったく怒ってはいないのです。確かに乱暴に粗末に扱ってきたので、自分への謝罪は書いたりしましたね、やっぱり。
セラピーで、そう、アドバイスされたからですね。嫌なことがあって我慢したとか、すごくびっくりしたことがあったとか。そういう時は、「あれ、ひどかったね。頭にきたね」とか「驚いたね、ああいうの嫌だよね」とか、自己共感してあげて、と。体なんかは、どっかにぶっつけた時あんまり痛くなくても「ごめん、痛かったよね」とさする、お通じがよければお腹さすりながら「今日もありがとう」とか。ほったらかしにしない。
でも、ほぼしょうがないじゃん。な私。今でもまだ大切にはしきれていませんね。長年のくせ、ですから。
内なる私は、現実世界で生きる粗忽な私に怒るということはしないです。ずーっと生まれた時から、私を見守ってきた内なる私。むしろ、苦しいでしょ、つらいでしょ、早く気づいて。だったかと思います。だから、私の「自分を許す」の許すは、すべてを「受け入れることを許す」だったです。粗忽な私が、自分は粗忽であってそれで完璧!、価値があると認めること、それで万事OK。
それなので、自分を許したりなくて自分への強い怒りが残っている、というのを見て、けっこうびっくりしました。ちょっと私にはわからないなぁ。
人それぞれですね。面白いです。
あまりに深い怒り、悲しみといった感情で、原因がわからないもの、心あたりがないもの、って前世から引き継いでたりすることもあって、言われるまでピンとこないこともあり。
じーっと感じてみると、あれ、これ私の感情じゃないんじゃない? だれか他人のじゃない? ってこともあったりしました。
以上。