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自分が引っかかる感性って大事かもというお話。(20190919)

歳をとったのだろうか、まだまだ世界の何も知らない学生のくせに、知らないことを知りたいとか新しいことや不思議な未知の景色に触れたいとか思うようになっている気がする。知らないからこそ、知ろうとするのだろうし、そこで知らないことをさらに自覚させられるのはエネルギーが必要だけどまぁ多分先への何か支払いだよねというよくある話に回帰する。

しかしながら、最近は普段当たり前のようにあることを再考して先人たちの偉大さに感化されることもある。今の我々の生活から疑問を見つけて新しい形やソリューションを構築しようとなった時、様々な選択肢が出てくるものの、結局は今の形が現代の我々には最適解なのだろうかというところに結構な数のものが着地してしまう。それはまぁそうなのかもしれない。何の変哲も無いと自覚している学生(僕自身)が1時間考えただけで、何十年何百年何千年続くもの、大きく形を変えてきたわけではないものたちが覆されるほど世の中はきっと柔らかくないし、甘くないし、その1時間の見解はきっと柔軟性というような綺麗で優しいことではなく、ただの不安定や非合理的と言った言葉がお似合いなのかもしれない。

とは言え、それでもやっぱり考え直さないといけないと思わされる。結局今当たり前に存在する身近な物体や、それに携わった人間たちがどれだけ凄いかのを知らずに生きてきたわけだし、まぁ知らなくても生きていけるけど、多分そういうことは人々がよく困る材料になる人間関係に対するマインドに繋げられる部分はあると思う。僕自身再定義や再構築の言葉や概念のおかげでストレスを下げる努力をしようと思えている。知ろうとする学びの姿勢は大事だし、人は謙虚で謙遜している姿勢を嫌だという人はそんないないだろうし、みんなが各々の考えに支えられながらその姿勢で日々を過ごしていれば、知や論理でぶつかり合うことはあっても、感情でぶつかり合うことは少しは減るのではないだろうか。ある意味他人への信頼度は下がり、しかしながら今までより過ごしやすい環境に様々なところがなるのではないだろうか。勘違いがよくされるのだけれども、学びの姿勢があることと他人に興味関心を持つことは同じではない。(共通項もあるかもしれないが)

大多数は他人に何かを喋るのが大好きなんだな、自己表現を目的にした時に最もやりやすい手段が自分にとっての身近な人に話すことなのだなとつくづく思わされる。大多数は他人の行動を見て話題にするのが好きなんだなと感じさせられる。他人への興味がまるで自分の思いだと言わんばかりの勢いでくる。でもそんなことを書いている僕が1番他人への興味があるじゃないかと今この文字の羅列を読んでいる人は思っているかもしれない。そういう人たちが他人への興味ではないということに気づいてくれれば僕の中では大きな進歩になるのだけれども…という皮肉だけ書いておこう。

話が逸れたのだけれども、僕の感性が引っかかるための条件、それは自分たちの世界観がある人、しかしそれは、その人たちが世間の要求されるものに答えながらもその中に自分たちの見る幻想を上手に入れながら作品として残しているということに気づいた。それは一見、自分たちの好き勝手やらせてもらいますと最初から頭を下げて旗を振っているように見える。そういう時が多い。しかしながら、実は多大なる労力がそれまでに積み上げられていて、しかもそれは他が何を見ているのか、何を感じているのか、といったところに時間とエネルギーが割かれている。クリエイターの本人たちは多分自分や自分の愛する何かのため、信念のため、などをモチベーションにしているつもりなのだろうが、結局それらも他から作れた自身が何か変化や応用を加えて作り出しているものと捉えてしまえば、陳腐なもののように見えるし、僕が感じてるみたいにとても面白い、何か寄り添える、理解したいと思う、わからないけど共感する何かがあるといったものにも見える。だれかが誰かのためだけに必死になる物語が何故か面白いと思えるのは、結局そういうことなのではないかなと思う。
だれかが誰のためでもなく、自分の信じるもののために必死になって作る物語が何故か面白いと思えるのも同じなのかもしれない。


ここまで書いて最後に残したいと思ったこと、それは今の自分は結局凡人の中でもがきながら凡人という中で終わることしかできない無力感に包まれながら、発見や何かしらの生産性を求め、同じような人たちと集団的つながりやビジョンによって肯定感を見出して生きているということ。それを僕は再認識させられたという話。だからこそ、自分が何に引っかかるのかは少しは明確にした方がいいのかもと思った話。

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