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"音楽"そのものは好きだけど、"音楽を取り巻く環境"が良いなぁと思う話

世界一のバリスタ、井崎 英典さん(2014年のワールドバリスタチャンピオンに輝いたアジア人初の世界チャンピオンになった人)の話を聞いてて、『僕はコーヒーが取り巻く環境が好きだ』から来た物凄い納得感というものが内包された共感による僕と音楽の話。

昔から音楽を主体的にプレイヤーとして触り続けていたわけではなくて、僕は幼少期の当時にピアノを1年あたりで投げたしてサッカーというものに走り出していた。何でピアノを始めたのか覚えてないけど、レッスン終わりのイチゴミルクが美味しすぎたのは鮮明に覚えている。モチベがご褒美のお菓子ですよ的なやつだなぁと。
サッカーは楽しかった。友達に囲まれて体を動かすことだけしか学べてなかったのかもしれないけれど…それでもまぁ純粋にあの時は楽しめてたのだなということを今思い出せたことが実は物凄く意味のあることなのかもしれない。意味のないことに意味を見いだせる人間って幸せの根本で豊かさなのかもしれない。まぁ世の中なんて意味のないことだらけなんだけどさ。

音楽は中学1年の最後の方で吹奏楽部に入ることがリスタートのきっかけだった。生い立ち話はここでしなくてもいいや。とりあえず大学生までやりました。

本題に戻しましょうか。音楽やってると変人の集まりとかいうことはよく周りから言われていたのだけれども、その手の話はあんまり信用してない。とはいえ、吹奏楽をやってDTMをやって巡り合えた人や機会にはいいなぁと思うことはそれなりにきっとあった。これは音楽が好きなんじゃなくて音楽が取り巻いてる環境に感謝してるんだろう。音楽は小さい頃からそれなりに好きだったんだけれども、歳をとるにつれて技術に対しての感動が薄れていく。まだ学生身分だからそのうち技術に知覚が向くのだろうとは思っているのだが、今この感覚はまぁそれなりに味わい深い気がする。物凄く泥臭くて効率の悪い非科学的なことなのかもしれないけれど、熱量に対して知覚が向くようになっていた。『たくさん頑張りましたね!終わり良ければ全てよし!』みたいなことは流石に受け取れないんだけど、組織の中でプレイヤーとして動いていると"人"と"行為"を切り離すことがどんどん難しくなっていく。それがいいのか悪いのかはあらゆる要因や材料によるだろうから答え合わせは出来ないのだけれど、音楽が取り巻いてきたものたちが好きだったとポジティブに思えるのは人生運が良かったのだろう。

コーヒーはまだそんなに得意じゃないのだけれど、落ち着いてカフェで人がコーヒーを飲んでる姿は嫌いじゃないし見てて心地いい。喫茶店は時間がゆっくり流れる雰囲気が出てて好きだし、ドライブの時に飲むコーヒーって抽象と曖昧さが流れている感じがある。今時のエモいってやつなのかな。

自分の音楽に対する捉え方(視座)の位置がなんとなく同じなのかなぁとか思いながら書いてきたが、実は対象そのものが好きじゃないのかもなぁって事例はたくさん世の中に蔓延っているのかもしれない。雰囲気で生きている人間がどれほど存在するのかは知らないけれど、行列に並ぶのが好きな日本人って話が異国から出てくるってことはもしかしたらそういうことなのかもしれない。

ちなみに井崎さんはマクドナルドのプレミアムローストアイスコーヒー、カフェラテを監修してる人で有名です。ぜひこの機会に飲みに行きましょう。

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