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ロベルト・フィルミーノ:リヴァプールのFWの質素だった原点~~アンフィールドの選手になるまでの物語



巨大なヤシの木が青緑色の海に向かって身を寄せ、太陽の下で輝く高層ホテル。そして、ロブスターや高級酒を販売するビーチサイドの豪華なレストラン。マセイオがどうしてアラゴアス州の首都で、ブラジルのカリブ海として知られている理由が簡単に分かるだろう。

しかし、国の未発達の北東部の都市と同じように、この絵葉書は物語の一部、観光に依存する大都市の表面的な部分だけを伝えている。2、3ブロックほど、中に入ると、異なるマセイオが姿を現す。そこはブラジルの最も治安の悪い場所として定期的にリストに載っている所だ。

ここは、ゴミがそこら中に落ちていて、不潔な水路のあるスラム街だ。いつも笑顔の臆病な少年はこの道路からブラジル代表へ、アラゴアスからアンフィールドへと旅をスタートさせた。

ロベルト・フィルミーノは1991年10月2日、Trapiche da Barra, で生まれた。そこは汚染された湖と極貧地域のファベーラに挟まれた所だった。彼は簡素な家の中で近くにある2万人収容のエスタディオ・レイ・ペレから発生する騒がしい音で眠りについていただろう。彼の心からフットボールが離れることがなかったのも不思議ではない。

Trapicheにある彼の住んでいた家は最近、改装されてホットドッグの店になった。しかし、フィルミーノ家の裏の元々の壁はそのまま残っている。錆びた金属の侵入者対策用の釘もそのまま残っていて、泥棒対策に未だに役立っている。それは昔、他の目的にも役立っていた。若い少年を家にとどめておくのに。

子供時代の友人ブルーノ・バルボサ・ドスサントスはプレイステーション2のサッカーゲームでフィルミーノとよく対戦していた。フィルミーノはコリンチャンスをよく使っていて、毎回勝っていたという。

「ここでは暴力沙汰は日常茶飯事だったし、ロベルトのお母さんは彼のことをとても守っていた。」 とフィルミーノの子供時代の友人ブルーノ・バルボサ・ドスサントスは話した。

「彼はフットボールに夢中だった。でも、彼にとって外にでることは難しかったんだ。だから、彼は壁をジャンプして飛び越えて、道路で私達とフットボールをよくプレーした。ある時、彼は壁から落ちて、膝を縫わなきゃならなかった。まだ、傷跡が残ってる。」

他の友人達も、試合で彼を外出させるために、フィルミーノの家の屋根に石をなげたり、彼の最初のクラブの Flamenguinhoのコーチがチームのスター選手だったフィルミーノが楽にこっそり家から出れるように脚立を置いたことを思い出す。6歳年上の子供たちとプレーする時でも、フィルミーノはそのレベルを超えていた。

「ロベルトのお母さんは近所の環境に影響されて彼が強盗になってしまうのを心配していた。でも、彼はそんな事に見向きもしなかった。」 とフィルミーノの別の友人は話した。彼は今も地元にすんでいる。

「彼は静かで内気で、いつも笑顔だった。でも、フットボールには夢中だったね。彼はボールを持っていない時でさえ、オレンジでリフティングをしていた。彼の夢はプロになることだった。でも、私達が住んでいる所でそれを叶える事はとても難しいんだ。だから、私はとても嬉しいよ。彼は彼の成功全てに相応しい。」

フィルミーノの知り合い、もしくは彼の両親Mariana Cicera 、Jose Cordeiroと話すと思うことはいつも同じだ。ある一つのポルトガル語の単語が何度も出てくる。「humilde」。謙虚という意味だ。献身的な家族は貧困から抜け出した。

ジョゼはかつて、道の物売り人だった。屋外の音楽ショーやフットボールの試合でクーラーボックスからペットボトルの水を売っていた。これがフィルミーノ家の唯一の収入源だった。そして、ロベルトもお金をあつめて、小銭を提供して、家族を支えていた。しかし、父親が家族を食わせるために、頑張っていた一方、ロベルトは大きな目標をもっていた。

「彼はいつも良い子で、他人への思いやりがあった。」 とブルーノは言う。彼は今もフィルミーノと時々、WhatsAppで連絡を取り合っている。

「今でも、彼は彼のおばあさんを助けていて、彼女が脳卒中になった時も車イスを提供した。」

「彼の夢は母親、父親、妹をこの場所から抜け出させることだったんだ。」

フィルミーノの子供時代の道路沿いの端を右に曲がって、一分歩くと、捨てられたゴミなどでラインが引かれたコンクリートの5人制サッカーピッチに到着する。この場所でフィルミーノはスキルを磨いた。シザースを練習し、彼の精密なコントロールを上達させた。

「彼はテレビでロナウジーニョやロナウドを見て、彼らのようになりたいと思っていた。」 とDedeuは話す。

「彼はよくロナウジーニョの能力について話していたけど、彼も同じものを持っていた。彼は他の誰よりも飛びぬけて上手かった。彼は見事だったよ。」

その小さいピッチはEscola Estadual Professor Tarcisio de Jesusの入り口にある。その学校はフィルミーノが7歳で初めて通った学校だ。校長室のドアには、何やら文字が書いてある。

/まず必要なことから始めよう。次に出来ることをやろう。すると急に不可能なこともやっている。/

Ari Santiagoは微笑みながら、このように読んだ。元行政支援エージェントの彼は学校のフットボールクラブを設立したことで高い評価を得ており、彼はよく生徒達に大きな夢を持つように言ってきたが、彼の生徒の中の1人がブラジル代表でプレーすることになるとは想像もしなかっただろう。

「私がチームを作ろうと主思ったきっかけの1つが、私が1年の休暇から戻ってきたとき、3人の生徒が殺されたのを知ったことだった。」 と彼は回想する。

「当時、ここはとても危険でそのような死は私の心を傷つけた。私は思った。私達が子供たちにこのような犯罪行為よりも何か他の事を見せる必要があると。なぜなら、私達が行動を起こさなければ、終いには彼らも同じように犯罪に手を染めるようになってしまうからね。」

学校のフットボールチームは犯罪行為などに関わる心配のあった生徒達の行動を良くする結果をもたらしただけでなく、サンティアゴ氏にその学校一の選手と認められている才能あふれる14歳と話すきっかけをくれた。フィルミーノは既に地元の強豪クラブClube de Regatas Brasil(CRB)と契約していたため、他のチームで試合にでることはできなかった。しかし、フィルミーノは学校のクラブで練習する許可を与えてもらい、練習試合にも出場した。

「彼はとても静かな子で、とても落ち着きがあった。でも、常にボールを求めていた。」 とサンティアゴ氏は話す。

「決まった時間しか子供たちはボールを使えなかったんだけど、彼はよく私の所に来て、ニコニコしながら手でボールの形を作った。私はボールを渡す時もあれば、そうしない時もあった。あの笑顔に対して、ダメというのは難しかったよ。」

彼の学校が地元の大会の準々決勝でCRBとの対戦が決まった時、フィルミーノは先生に、自分が試合で決める全てのゴールを家に持ってかえるためのカバンを持ってきなよ!と生意気にアドバイスした。案の定、彼は約束通り得点し、8-0で勝利した。

「次の日、私がオフィスにいた時に彼が来た。」 とサンティアゴ氏は思い出す。「彼は笑いながら私のそばを通り過ぎた。何も言わずに。すると、彼は戻ってきて、満面の笑みを浮かべて、再び去っていった。これが彼なりの自分を表現する方法だった。笑顔を通してのね。」

その年の始め、フィルミーノはCRBのトライアルを受けた。彼の母親も同行した。彼女は息子のフットボールスキルがTrapicheから家族が抜け出す切符になれるかもという近所の人達の信念に興味をそそられたのだ。そのユースクラブのコーチGuilherme Farias はすり減った靴を履いたひょろっとした少年との契約を決めるのに数分しか、かからなかった。

「すぐに私の注意を引いたのは彼の技術の質でした。」 と Farias は話した。彼の自宅の部屋には前に所属していた選手達のサインシャツやトロフィーで埋め尽くされている。その中には3度チャンピオンズリーグ優勝を果たしたぺぺのもある。

「ロベルトは静かだった。でも、シュートの打ち方は、ずば抜けていた。私はフィールドに彼も含めて3人を連れてきて、彼を止めてこう言った。書類を準備しよう、君は我々とプレーするんだ。」

お金は厳しかったが、Fariasとクラブの歯科医Marcellus Portellaの協力もあり、フィルミーノはブラジルの北東部を旅しながら、ジュ二アチャンピオンシップで2年間、守備的MFとしてプレーし、よく同じチームで未来のレアル・ソシエダのストライカーのウィリアン・ジョゼと組んでプレーした。ある時、ナショナルトーナメントでサンパウロへバスで120時間の長旅に乗り込んだ時、彼の足は腫れていた。しかし、彼の熱意が消えることはなかった。

「私は多くの才能に満ちた選手と練習してきた。」 とFariasは話す。「でも、ロベルトほど熱心さを見せた選手は他に誰もいなかった。」

Portellaは後にフィルミーノのアドバイザーと代理人を務める人物で、こう付け加えた。「ロベルトはいつも前向きで献身的だった。彼のような選手は他に見たことがない。私は昔から言ってきた。いつか、この少年をブラジル代表で見ることになるってね。みんなは、このドクターは、おかしいと言ったよ。でも、今日彼はそこにいる。私はたくさんの人々を黙らせたんだ。」

フィルミーノが16歳の誕生日を迎えて間もなく、PortellaはCRBユースのコーチのToninho Almeidaを Luciano 'Bilu' Lopesと接触させた。彼はアラゴアス出身でブラジルの南東で現役を終えたMFだ。Almeidaは彼の宝物であったハイライトDVDを送ると、Biluはフィルミーノの動態力に感心した。マセイオの荒れたピッチの上だというのにだ。彼はサンパウロでトライアルを開催するを手助けした。当時の1部リーグチャンピオンに君臨していた、彼の前所属チームでもあるフィゲイレンセだ。

サンパウロでの2週間、フィルミーノは辛うじてボールを見つけたが、オファーは来なかった。彼は苛立ちながらも、動揺せず、サンタカタリーナ州のある南へと飛んだ。その頃、彼のおとなしさが理由でフィゲイレンセのコーチの間で疑念視されていたにもかかわらず、ボールさえあれば、彼は足を思うままに操れた。

「ロベルトは2008年の中頃トライアルを受けに来たよ。」 とHemerson Mariaは思い出す。彼はフィゲイレンセUー17のコーチを務める人物だ。「通常、トライアルは最大で1か月続くが、選手によっては、それより少ない2週間や10日などで終わる場合もある。」

「ロベルトのトライアルは僅か30分で終わった。彼は例外だった。彼は、ほとんどミスすることなく、素晴らしい技術的な質を見せてくれた。そして、バイシクルキックで2点を決めた。トライルが終わった後、みんなが彼について話していて、私は、我々はとてもスペシャルな選手を手に入れたことを理解したよ。」

 Mariaは即座にフィルミーノのポジションを変えた。彼を、より攻撃的なポジションにしたのだ。彼はホームシックだったが、この機会を最大限活用することに必死だった。彼はSNS経由でマセイオにいる地元の友人達と連絡を取り続けていた。友人達には成功を収めるまではそっちには戻らないと伝えた。彼の内気なところは依然として心配だった。Mariaは2週間、彼の事を ,アルベルト,と呼んでいた。訂正されなかったのだ。

Biluは思い出す。「ロベルトをフィゲイレンセに連れていった直後、ベースコーディネーターから彼はミュートされているのかと電話がきたんだ。彼がとても静かだったからだ。私は彼に電話して言った。 ,ロベルト!話さなきゃだめだよ。ボールを要求しなさい。スタッフと話しなさい。, 彼は何も言わなかった。ただ笑っていた。」

それでも彼の声は静かだったが、彼の周囲は次第に騒がしくなっていった。2009年、彼がフィゲイレンセのトップチームでプレーするよりも前、彼はマルセイユのトライアルに招待された。しかし、彼の南フランスへの旅は途中でスペインでの乗り継ぎを含んでいて、事は早くに失敗に終わった。フィルミーノは飛行機を乗り換えるというだけの出来事にもかかわらず、マドリード・バラハス空港の出入国管理事務所は事前に必要な書類なしに、入国しようとしていると彼を非難したのだ。彼は涙しながら、母国へと送り返された。

ブラジルに戻り、フィルミーノはMariaにワールドカップでの栄光を掴んだブラジル代表キャプテンのカフーにも若い頃、似たような失望した経験があることを思い出させられ、17歳の彼は精神を奮起させられた。1ヶ月後、彼は再びマルセイユに飛び立った。今回は直行便で。しかし、最終的にマルセイユは彼の契約解除額の£860000の支払いを拒んだ。

「それ以来、彼の成し遂げた事を考えると、我々側にエラーがあっても、受け入れるべきだった。」 と2018年に元マルセイユの人事主任のJean-Philippe Durandは認めた。

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フィルミーノが18歳の誕生日を迎えた3週間後、彼は16番のぶかぶかな、黒白のフィゲイレンセのユニフォームに身を包みプロデビューを果たした。3ヵ月後、クラブの1部昇格への貢献を評価され、彼はセリエBの最も有望な選手に選ばれた。2010年の12月までには、アーセナルとPSVから関心を寄せられていたにも関わらず、ホッフェンハイムと契約した。

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日光が照りつけるサンタカタリーナから雪の降る南西ドイツに移ることは試練だったが、彼のコーチがいつも言っていたように、フィルミーノの献身性が彼を際立たせた。数年の順応期間の後、彼はブンデスリーガのシーズンで最も躍動を遂げた選手に選ばれた。その頃までにリヴァプールはマンチェスターシティとマンチェスターユナイテッドとの競争に勝ち、2015年7月に彼と契約し、彼はブラジル代表にも選ばれた。

「彼の退団は私達に嬉しい反面、悲しみも残した。」 とホッフェンハイムのフットボールディレクターAlexander Rosenは2018年に話した。

それ以来、フィルミーノのキャリアは急な曲線だけを描いている。過去12ヶ月の間、彼はチャンピオンズリーグ優勝、コパアメリカ優勝、そして、プレミアリーグ優勝目前である。8月にはプレミアリーグで通算50ゴールを決めた初のブラジル人になり、12月にはクラブワールドカップ決勝でフラメンゴを破るその試合唯一の得点も決めた。

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しかし、この男は初期に受けた他者からの恩恵を彼のルーツから忘れることはない。2018年7月、アラゴアス出身の3人目のワールドカップ出場者になった直後、彼はTrapicheにある母校に戻り、500個のフードバスケットを地元住民たちに提供し、子供たちににはトランポリンや、おもちゃを提供した。家族の医療費を支払うために£60000を寄付し、サンタカタリーナ州にある病院に毎月、財政的援助をし、彼の気に入っているマセイオのレストランで200人分の飲み物を奢ったり、時には、彼を知っている全員が彼の寛大さを伝えるストーリーを持っているようだ。

それにもかかわらず、彼の気持ちは母国では十分に理解されていないままだ。恐らく、彼の友人や昔のコーチによれば、彼はサンパウロやリオデジャネイロの伝統的なクラブでプレーをしたことがないからだ。エスタディオ・レイ・ペレのスポーツ博物館でさえ、アラゴアンの英雄達の銅像の中に、すぐ下の道路で生まれたスーパースターを記念するものは何もない。

予想通り、そのような感情はマセイオの道路には広がっていない。ここは、巨大なヤシの木と高層ホテル、汚染とプラスチックゴミなどの中で、フィルミーノは相変わらず謙虚なままで、無名な英雄なのだ。

携帯電話の技術者であるSergio Araujoはポンタヴェルダのビーチでリラックスしながら話した。

「ロベルトは現世界最高のブラジル人選手だよ。彼は絶対そんな事は言わないだろうけど、私はそう言うよ。ネイマールも彼の足元には及ばないさ。」

【終】

・フィルミーノのフィゲイレンセ時代のプレー集 

https://youtu.be/30E8pc1gFvk


【引用元】

https://www.bbc.com/sport/football/51815586


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