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美味しさの理由

 別段、その店が目的でその街に降り立った訳では無かった。その街で友人が営む飲食店で会食があり、待ち合わせに遅れてはいけないと早めに家を出たら、予想以上に道が空いていて、一時間以上も早く着いてしまったのだ。

 さてどこで時間を潰そうかと、街をウロウロしている時に一軒のラーメン店を見つけた。正直、看板や店先のポスターなどを見ても、あまりというか全くそそられない。普通であれば間違いなく素通りする佇まいだ。しかし、この店の名前は記憶の片隅にあってふと立ち止まった。

 その店は別の場所で人気を博していたが、数年前にこの街に移転して来た。その時にこの店の存在を知り、機会があれば訪れようと思っていた店だったのだ。それから数年経って偶然私はその店の前に立っている。私の好きなタイプのラーメンでもあったし、約束まで時間も余るほどあった。そそられない雰囲気であっても、これは入らない手はあるまい。

 数年前にオープンしたという割には古びている店舗。恐らく前もラーメン店か何かで居抜きで入ったのであろう。しかし決して汚いわけではなく、掃除は行き届いていた。券売機で醤油ラーメンのボタンを押し、券売機横にある給水器で水を汲み、カウンターに座る。厨房の中にいる二人は初老のご夫婦のようだ。午後6時過ぎの店内に客は私の他に二人だけ。ご主人は「お好みはありますか?」と尋ねてきたので「ありません」と答える私。

 きっと何年もこうしていたのであろう、迷いの一切感じられない淀みなき厨房での美しい所作。麺を茹で釜に入れる前に優しく麺を触りそっと入れる仕草。タレを入れスープを注ぎ、茹で上がった麺を丁寧に丼に沈めて、そこからは素早く丁寧に盛り付けて。「お熱いですのでお気をつけ下さい」とカウンター越しに渡されたラーメンは、しっかりと乳化したスープの表面に浮かぶ油がキラキラとして、もうそれだけでその美味しさが伝わってくるようなものだった。

 骨の旨味をしっかりと蓄えつつもしつこさや雑味が一切感じられないスープに、程よくキレのある醤油ダレが見事に調和し、そこに優しい鶏油の甘みが加わる。やや縮れた中太麺がそのスープを持ち上げる。臭みもなく程よい塩加減のチャーシューは、スープに馴染むごとに美味しさが増す。味の好みは千差万別なので一概には言えないが、私にとってはかなり好みの一杯であった。

 ラーメンを食べながら、厨房のご主人にふと目をやった。ご主人はスープの寸胴の前でバットとトングのような物を持って、寸胴の中から崩れた骨を取り出している。その骨一つ一つを見て確かめて、選るように寸胴にまた一つ一つ戻していく。まるでスープや骨を慈しむかのように寸胴に向き合って、骨を出しては入れているのだ。

 その横で洗い物をしていた奥様は、時折その手を休めて帰る客に笑顔で「ありがとうございました」「気をつけて行ってらっしゃい」と声を掛けている。そして厨房から出ると、布巾を使って丁寧にカウンターを拭き始めた。驚くほど丁寧に、念入りに、磨き上げるかのように。良く見ると複数の布巾を使い、カウンターや椅子などで使い分けているようだ。さらには卓上の調味料類の注ぎ口は布巾ではなくティッシュペーパーを用いて丁寧に掃除している。

 そしてもう一度厨房に目をやると、見事なまでにレンジやフード周りなどがピカピカに磨き上げられている事に気付く。丼や麺の箱、お玉やタレの入れ物なども綺麗に並べられている。骨の入れ替えを終えたご主人は、今使っていたトングをすぐに洗浄機の中へ入れた。奥様はカウンターの縁を丁寧に拭き始めていた。

 美味しさは舌や鼻だけで感じるものではない。美味しさは良い素材と上手な調理だけで生まれるものでもない。作り手がラーメンに向き合う姿勢や、性格や人柄も味に出るのがラーメンという料理の面白さでもあり、素晴らしさだと思うのだ。そしてそれは、まるで工業製品のように作られたスープや麺を、何の思い入れも持たないアルバイトのような人が決められた通りに作って出来上がる「ラーメンのようなもの」を私が食べない理由でもある。私が食べたいのは、人の想いがこもったラーメンなのだ。

 この後、会食が控えているというのにスープまでしっかりと飲み干してしまった私は、「ごちそうさまでした」とご夫婦の顔を見てそそくさと席を立った。作業の手を休めて私の方を向いて「ありがとうございました」と言うご主人に「気をつけて行ってらっしゃい」と笑顔で見送ってくれる奥様。いつになく清々しい気持ちで暖簾をくぐった私は、いつになく足取りも軽く待ち合わせの場所へ向かうのであった。

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