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今週の哲学:会社活動を意味づける

9月になって、夜の涼しさを感じて、夏の終わりの気配がありますね。

最近はというと、販売・購買管理システムを導入するプロジェクトのPMを継続してやりながら、コーチングや哲学などを深めておる次第です。

今のテーマの一つが「会社活動の意味考え、組織的に表現すること」

いわゆる「MVV(ミッション、ビジョン、バリュー)」を実際の事業と紐づけること。これについて、最近読んでいる本や考えていることが繋がっているはずなのに、その繋がりがよくわからないなと思いながら、ひとまず文字に落としてみたのがこのnoteです。

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意味は問いから始まり、問いは身体性を帯びている

「意味」を見出すのは「問い」から始まる。その問いは常に未来志向(目的論)に立脚している。また、会社組織もこの問いを持って活動しているが、究極的には個人に紐付くため、問いは身体性を帯びる。この身体性を帯びるユニークな自分自身の真の問いを見つけ、常にこれを繋がっている状態を保つことが経営とも言える気がする。

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興味深いと感じている二つの問い

個人的に特に気にしている問いが「個人・組織の創造性の回復を行うには?」と「分断する社会の公共とは?」というものだ。特に一つ目の問いは最近のメガトレンドとして感じるが、この表裏一体となって存在する二つ目の問いについても考えてみたいと感じた。

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サッカーから学ぶ「課題の分離」と「構造的アプローチ」

真の問いは、自分自身が向き合うべきもの(課題の分離)である。そのため、本来的には他者(他社)の課題に介入する必要はないし、もっと言えば、介入することはできない。この課題の分離について、このnoteではサッカー関係者の動画を使って触れている。加えて、この課題への向き合い方として、いわゆる要素還元的なアプローチ(分析、分解)をとるのではなく、構造全体をとらまえることが吉ということを、同様にサッカーのトレーニング手法を例に触れた。

これは会社の活動、文化をつくっていく上でも重要な物事の捉え方だと思う。

というようなことを書いてみたかったのかなと、書いてから考えた。詳細は以下で展開しております。

1. 哲学する身体

最近、アドラー心理学(嫌われる勇気)を熟読していた。その中で、「目的論」(以下の図でいうところの「前提」)という物事の捉え方がある。

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「目的論」とは目の前の出来事の意味づけは、完全に自分自身がコントロールできるものであるというもの。つまり、主体的に決めることができることを言っている。これを少しずつ実践しようとしている時に身体的な感覚の変化もあり、それがヨガで得られる感覚と似ていた。

【問う、哲学する、そして目的論】
哲学するということは、広義では主体的に問い直す、考え、それを語る(対話する)ということ。問い直すことは目的があってこその行動であり、目の前の出来事の意味づけも目的ありきの話。したがって、「問う」ことと「哲学する」ことと「目的論」は同じ意味であるような気がしている。

ヨガをして足裏感覚や腸腰筋が発達すると、重力を感じなくなる(体が軽くなる)。その感覚は、身体のコントロールレベルが上がるということで、意識としては、自由度が上がる感覚を得ているのかなと考えている。

そんな中、哲学を学び、目の前の捉え方(やその方法)の決定権は、「本当に」自身にあるという気づきは、いわば「自由」に関するものだったと当時に、身体感覚もヨガのそれと似ているような気がしたのだ。

主体性、自由について、身体で起こる変化と脳みそで起こる変化は完全にリンクしているのかもしれないと想像した。認知の自覚化は身体感覚を磨き、腸腰筋を鍛えるのと同じ、ということかもしれない。

2. 問う、考える、語る

今、「問いのデザイン」という本を読んでる。ワークショップに関する書籍であるが、「問い」そのものに向き合った書籍で非常に興味深い。

特に「問う」ことは、認識と関係性を捉え直し、関係者の創造性を回復する、その結果、興味深い(暫定的な)答えを紡ぎ出すことだと、認識を新たにすることができた。

【問いに関するプロセス(参考)】
1. 問う
2. 思考や感情に刺激を受ける
3. 他者と創造的な対話を行う
4. 認識や関係性が捉え直す
5. 答えや解決策を紡ぐ(1. に戻る)

この本と同時並行で、「考えるとはどういうことか」という哲学入門書を読んでいた。これは、いわゆる、ソクラテス、プラトン、アリストレスなどの哲学の専門書ではない。そもそも、「問う」ことこそが哲学であるという主張の本である。

共に「問い」について、書かれている本である。自分自身を振り返って見た時に、自分自身に投げかけている質問はもちろんのこと、他者に投げかけている問いにどれだけ慎重に意識を向けているだろうかと考えさせられる。

例えば、過去を振り返ると、選択した一つの結論がリストとして出来上がってくるが、その結論を出した裏側にある問いというものがどんなものだったのかこそ、思考や活動の本質なのだろうと感じた次第。

3. 分断される社会における2つの大きな問い

昨日、友人の話を聞いて、はたと感じたことが「分断される社会における2つの問い」だ。

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1. 自分らしさとは、それを発揮するには?

今、私自身も含めて、自分らしさの認識と発揮に忙しい。(これは組織においても同様な気がして、興味深い)

佐渡島氏はコミュニティに関する自著で「これからは自分がなにものなのか自覚的になることが求められる」と書いていた。(WE ARE LONELY, BUT NOT LONELYより)
これからの時代は、大きさは別にして、あらゆる場面で立候補しないで生きていくことが、困難になるのではないでしょうか。どっちの道に行きたいのか、何がいやで何がしたいのか、何を美しいと感じ何をみにくいと思うのか、そういったことを自分なりに生きるための「軸」として持っていないと、他人とリンクしたり、他人の協力を得られたりができないでしょう。(糸井重里氏・インターネット的)

昨今のコーチングが急速に広まっている(ように見える)ことも証左のように思う。これはこれで社会的な要請な気がするのだが、同時にこれが分断を促しているように思うのが気になる。

2. 分断する社会での公共とは?

あらゆるテクノロジーやサービスが個人化を促しているところを見るとその傾向が益々加速する。

消費活動を見てみると、共感や応援マーケティングが有効になっている。インフルエンサー、クラウドファンディング、オンラインコミュニティ。これは、マス扇動が効きづらくなることや、選択肢が個人に戻るとも言え、所謂「民主化」しているようにみえる。

こういった流れを少しネガティブに捉えてみると、以下のように見える。

1.SNSによる表層的な拡散
2.クローズドなコミュニティでの醸成
3.コーチングによる個人の認知の固定化

こうした様々なレイヤーの動きによって、社会の分断が促進されている。特に、3.のコーチングによるところが興味深い。

アップデートを前提にしない「あるがまま」を受容することのみの内省に留まることで、個人の身体の中で、認知が固定化し、怒りなどが増幅する装置になるかもしれない。(なお、実際に、まず「受容」することは万人にとって必要なことだ)

こんな分断化が進む時代での、公共とはを考えてみるのは面白いかもしれない。

4. 「課題の分離」を語る/実践するサッカー関係者の事例

アドラー心理学(嫌われる勇気)で語られる一つが「課題の分離」。人間関係を気づく上での、入り口になる考え方。すなわち、自分の課題にのみフォーカスせよという話だ。

有名な格言で言えば、「変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を峻別する知恵を与えたまえ(ラインホールド ニーバー)」で表現されるものだ。

これを、二人のサッカー界の著名人が語っている動画あるので、紹介したい。むちゃくちゃかっこいい。

実際に実践することの難しさを想像するが、いずれにせよ、人間関係全てに関係しそうなやりとりだ。

5. サッカーとは何か(2大トレーニング方法)

モウリーニョ氏の課題の分離を強く意識したコーチングの動画を見て、興奮していると、知人から「サッカー」とは何か?という本を紹介された。

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この本は奈良FCの監督である林氏が書いた、サッカーのトレーニング理論の本であった。林氏はポルトガル留学中に、モウリーニョ氏の授業を受けたことがあるとのことだ。

この本で書いてあるトレーニング理論は大きく二つあるらしい。マネジメントや認知の話が色濃くあり、かなり興味深い本であった。(サッカーとはという問いをトレーニングという観点で説明する本であった)

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ふたつのトレーニング方法はともに、「要素還元主義」という考えから脱却して、全体をそのまま捉えるということが共通点としてある。一方で、戦術的ピリオダイゼーションはチームから、構造化トレーニングは個人からアプローチするものであることが大きく異なる。

個人的には、構造化トレーニングが興味深く感じられる。特に、自己構造化で自分自身のメカニズムの認知を深めていく考えは、コーチングにも通ずる。

おわりに:会社の活動の意味づけをする

最後につらつらと書いてみる。現在取り組んでいる全社的な受発注システム導入はもちろん、新規事業プロや組織文化の醸成プログラムでも色々と感じるところがある。

会社のWHY「意味」についてだ。

いわゆる会社は「経済的な観点」抜きに存在はし得ない。しかし、その観点だけでは、組織的に動くことは難しい。必要なことは「意味」だと感じる。

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私は、こんなことをグリグリ考えることが大好きだけど、普通はそこまで考えないかもしれない。その時に、この抽象度の言葉がどこまで実装されていることを実感できるのかは興味深い。
「Supershipグループのバリューを個人的に読み解いてみる」

この「意味」を紡ぐためには、当然に社会のメガトレンド、マーケットとの関係(ニーズ)を整理することは必要だが、不可欠で抜けてしまうことは「個人」と「対話」だと思う。これは、「問いのデザイン」でも書かれていたことだ。

適切な問い(個人または会社が向き合うべき真の課題)と創造的な「対話」を通じて、「認知と関係性」を紡ぎ直す。そして、活動自体の意味を見出していく。また、それを語る「個人」が必要になる。結局、会社自身は語ることができない。その個人は「哲学する身体」で問い、考え、語っているだろう。

また、個人的にとても興味がある問いは「個人と組織の創造性を回復するには?」「これからの公共とは?」であり、その問い自体もしくは解決策は、単純に要素還元することなく、全体を全体として捉えていくことが肝な気がしている。

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